1904(明治37) 年11月21日

午前は一ツ橋。午後白馬会流用金整理一件につき和田、藤島及小林に手紙を出す。岡田は黒田の中立で条件確定す。三時より黒田を尋ねる。野崎という老朽検事の肖像をかいて居る処であつた。長原より金を受取る事話し同氏へ手紙を出す。後に中丸来り自転車の話遂に纒らなかつたと聞く。併し黒田が又外に売れ口の話があるというので之に一縷の望が生じた訳である。五時過に帰宅した。

1904(明治37) 年11月22日

一ツ橋より例の如く上野に廻る。夜小代佐野来。八時過になつて小泉来る。中丸との自転車の取引き非常な不結果を以て局を結んだ事の顛末を聞く。此夜は十二時過きに散会し且中丸の不法なるやり方につき非常に不快に感じ之がために神経に激感し終夜快眠するを得ず。

1904(明治37) 年11月23日

今日は新嘗祭にて休暇。午後こまは彬を連れて愛宕山に散歩に出掛けた。二時過に小代来りとこかに出ないかといつた。昨夜の不眠で気分がわるい時であるから早速賛成、支度して門口に出たら丁度竹沢が来り三人で佐野の処へ行つて暫く話をする。別に面白い考も出ないで遂に今福で晩食という事にきまつた。若し是れが遠乗りの妙案でも出てどこまでかいつたならば災難を免れたか或はもつとひどい事になつたか分らない。兎に角人間の運命は全く不測なものでC‘etait écrit主義は決してけなしたものではない。それでいつも今福では遅くいつてひどい所に押込まれるからというので今日は明るい内に出掛けていつた。案の如く下坐敷が明いて居て珍らしく奥の右側の隅の部屋にはいる。小父さんは機械屋へ廻つて少し後れて来た。今日の肉は中々上等充分甘く喰つたが酒は何となく変な味がする様であつたが、竹沢におつき合で初の内に五六杯続けて引かけ三人の口で三本の徳利を並べた。是は例もよりか一本はたしかに多かつたに違ひない。六時過に仕舞つていざ勘定という段になつて何となく酔心地が悪いやうな気がして例の病気が発してはならないと思ひ用意のために便所に立つて見た。小便をやつている内に最う溜らない。吐いて仕舞かと思つたが我慢をして便所を出たまでは覚へて居るが其後の瞬間の事は分らない。なんでも椽側を歩いて来て曲り角でブツ倒れたのである。下女は倒れたのを見て驚いて連中に報告する。手拭を濡して頭を冷す。なんでもコツプの水を飲めというので始めて気がついたのだ。此間恐らく一分間位は経過したに相違ない。気がついて見ると小父さんはハンケチをぬらして頭の傷口を抑へて居る。オヤどうして怪我をしたのか不思議でならない。手でさわつて見ると、後頭の真中が大分へこんで居て血がついて来る。傷口はウェルチカルであるが別段庭に落ちたらしくもない。全く椽側に倒れて角にぶつゝかつた丈である。殆んど迷信家の材料になりそうな怪我の仕方である。マダ気分が本統でないから部屋に入つて横になり頭を冷して貰つた。竹沢は時計を出して脉搏を数へて居る。凡そ三十分近く休んでもう大丈夫になつたので人力を雇ひ、自転車は連中に頼んで置いて車に乗り、森元の伊東の処にかけつけた。不在であつたが代脈が居て傷口を洗ひ療治をしてくれた。存外傷は大きいといつて一ト針縫ふという次第。医者の手に掛るやうな怪我は一生に始めての事であるが、思へは妙な具合で怪我をしたもんである。遂に繃帯を頭の囲りに巻きつけて赤十字のお仲間入りとなり帰宅した。連中は先きに来て待つて居る。直様床を取らして病人になつてしまつた。

1904(明治37) 年11月24日

一ツ橋へは電報を出して断り美術学校にも欠勤届を出す。九時過伊東に診察に出掛る。十一時過竹沢が見舞に来てくれた。丁度昨日用意した鯛の潮煮で昼飯を出す。竹沢は明日房州に行くといつて居たが四時頃まで遊んでいつた。夜中丸に詰門の手紙を出した。

1904(明治37) 年11月25日

今朝合田に使をやつて今日学校で棒給を受取り、それを持て来て呉れるやうに頼んだが承知してくれた。朝は医者の処へ行きそれから昨日竹沢に貰つた二羽の鶉を料理した。午後は自転車の大掃除をする。機械の全部を取外した時に中丸がやつて来て色々昨夜の手紙に対する弁解を試みる。要するに友誼上の売買相談は謝絶して更に利益上の相対承諾というので別に異存に入れる余地はない事になつた。後小代も来て共に話す。鶉の汁に豚のゴタ煮で晩食を出した。中丸は食後間もなく帰つて佐野がやつて来た。八時過に合田が金を持つて来てくれた。

1904(明治37) 年11月26日

十二時頃山本芳翠来り戦地から飯盒を土産に持つて来てくれた。午後中丸再び来り自転車を他に売り払ひたいといつて居た。つまり余り事がやかましくなつたから彼の車に乗るのはいやになつたというのである。それはどうでもするがイヽと答へた。中野氏より婚礼の案内状が来る。怪我の理由を以て断はる。夜小代小泉佐野来る。

1904(明治37) 年11月27日

午前伊東に診察の際自転車売物の事を話す。其内に見に行くといつた。午後婚礼の贈物を探しに銀座まで鳥打帽子を冠つて行つた。新橋の勧工場に入つて見たが何も感服するものはない。芝口の鰹節屋にはいり糸巻の飾り物を見て之を約束す。お安く上つて仕合せである。夫より電車の中丸の処に廻り伊東の事を話す。此間の金の具面先を白状した。随分変てこな訳柄である。暮れ過に帰宅する。

1904(明治37) 年11月28日

まだ頭の繃帯が取れないから猶二日間不参の趣を高商学校に届けた。今朝伊東の処で傷口の糸を抜いた。昼飯には小父さんが来て一緒に食す。二時過に区役所に区会議員の投票に同行し、夫から家に来り入浴五時過に帰つた。三時頃に高等商業学校より爵位局の換出し状を持参す。五時過に菊地が見舞にやつて来る。後佐野も来て十時過まで話す。

1904(明治37) 年11月29日

今日は繃帯を取つたので午後上野に出勤す。途中宮内省爵位局に赴き代理の手続を問合せ学校で藤田に依頼した。授業後校長に面会、石膏一件落着安心した。夜佐野を訪ひ請求書送附の事を告ぐ、後小泉小代等と会す。

1904(明治37) 年11月30日

今日から一橋の授業を始める。去二十六日より旅順総攻撃が始まつたが松樹山、二龍山の方面は不成功に終りたるが如く甚た心配な訳である。バルチック艦隊は追々進航最早その一分隊は蘇西を通過したるの報あり。かたがた旅順陥落の永引くのは大に人気に関する所である。沙河方面も今に睨み合ひの姿であつて追々寒気は烈しくなり此先の成り行は未た遽かに知る能はざるものゝ如し。

to page top