1904(明治37) 年7月1日

午後前約に依り黒田を尋ね規則改正の事を相談する。帰りは共に和田の画室を訪ふ。不在なりしがおつかさんの案内にて製作中の画を見た。五時半頃帰宅。

1904(明治37) 年7月2日

夜こまと共に恵智十に出掛けた。出物は柳派の落語源水の独楽廻し等色々あり。最も可笑しかつたのは高橋勝造が来て居たのが如何なる覚へ違ひかあなたは小林さんでしようといつて日光ホテルや中禅寺に居た何某が愛宕館に来て居る話なとをしたが面倒だから其儘の挨拶をしてやつた。大方小林といふは異人附のガイド位なもんだろうと思ふ。そんな奴に間違へられたのは感心しないがどこか似て居る所があると見へる。勝造が何故に来て居たかといふと此寄席で中入後には松尾龍といつて日露義太夫をやるが後しろに幕を引張つてかきわりのやうなものを見せるのであつて、是は米国で金銀の賞牌を色々得られた高橋勝造先生の義侠心を以て描かれた油絵にござり舛と義太夫語りが披露をする一種の広告手段であるのだ。特に妙なのは此義太夫語りは高座の処に卓子を置いて演説をやるやう突立つて新作の義太夫をやる。それがために肝賢な書割りは体に隠れて見えないといふ滑稽な訳である。余り面白くもないから半分で御免を蒙つた。夕立模様で怪し気な風が吹くので急き帰る。

1904(明治37) 年7月3日

午後小泉翁来訪、戦争画報及渡航協会設立の事など話す。小代を迎ひにやつたが不在、佐野は来る。夕方になり三人で三田の今福にて夜食をなし後春日亭を見に行く。演芸会といふ看板で例の常盤津浄瑠璃都太夫式佐連中及ひ名古屋芸者久吉歌名江の音曲踊り等で大入り十一時にはねる。

1904(明治37) 年7月4日

本日卒業式に付八時過より家を出で学校に出掛ける。炎天にて暑気随分はげしい。正木先生は病気のため不参。高村髯翁代理を勤める。列席者は文部大臣を始め大勢であつたが至極簡単に儀式は済んだ。後運動場の老木の蔭で写真を取り十時半頃に引受つ〔ママ〕た。午後日本画の生徒毛利牧野の二人落第生免除願ひに来る。校長に相談して見よふといつて帰した。夜、校長及川端の送別会を八百松に開く筈で総ての準備を行つた後であるから校長の欠席に構はず開かれた。職員連は大概出席、小使頭の西村の裸体踊りの乱行を見たる外至極無事に終つた。帰りは小林と二人で本所の方を廻り大橋を越へて十時半頃帰宅した。

1904(明治37) 年7月5日

八時頃から目黒に出掛ける。丁度よねがサラードを買ひに行つた処であつたので例のロースビーフの御馳走になつた。前日歌舞伎座活動写真見物の話などがあつた。庭は凌霄花満開山百合多くの蕾を持つ、畑には茄子茂る。今日は井戸浚へ職人が来て仕事をした。連日の旱天に拘はらず水勢盛んなり。二時頃に辞し帰る。夜留守番。

1904(明治37) 年7月6日

夜九時過矢来町に校長の病気を見舞ふ。高村光雲が来て居た。落第生の件につき話す。十一時過帰宅。午後四時頃に竹沢来訪、小代と佐野を誘ひ今福にて食事。旅順陥落十五日見当なるべしとの風説、其他戦争談色々始まる。今日は大山総司令官の出発で市中は宛然旅順祝捷のやうな観がある。帰り掛に一同立寄り冷風の中に少時話す。

1904(明治37) 年7月7日

夕方に散歩に出掛けたるに紅葉館前にて小泉が人力に乗つて来るのに逢つた。共に散歩、山門前で電車に乗り数寄屋橋にて降り銀座通りまで同行し分れて地蔵の縁日をひやかし植木鉢を求め、夫から資生堂の二階で氷菓子を喫し、勧工場に入り再び電車にて帰路に就く。

1904(明治37) 年7月9日

校則改正委員会午前八時より開会との通知うく。八時過に到着、九時より開会、校長は病後にて無気力、異見区々決せず。午後六時になり散会、各科にて競技法の案を提出する約なり。学校を出て電車にて山王山に馳けつける。今夜白馬会例会を同処榎本にて開く。出席二十人、九時過になつて誂への弁当が来て夫から展覧会の下た相談を始め、十一時過に終る。

1904(明治37) 年7月12日

今朝竹沢と同行出発を約したが曇天にてお流れとなる。残念。菊次郎が野菜を持つて来た。午後学校に出掛けたが文庫は既に退出後であつた。校長は病気未た全快に至らずとの事。学校を出て竹沢の方に向つた処音楽学校前にて中村に行逢ひ高等商業学校の一件を聞込む。団子坂上長原を訪ひ研究所用金四〇渡す。間もなく辞し竹沢の処へ行つた。房州輪行相談の為なり。併し旅行の事は赤痢類似患者生じたるに依り今回は廃案となる。晩食の御馳走になり九時過に帰宅すれば、高樹町丈が待つて居て十一時頃まで話す。

1904(明治37) 年7月13日

午前黒田の処に出掛ける。吉井一三より商業学校仏国教頭云々の話があつたといふので其詳細を聞き同伴にて松崎校長を尋ねる積りで電話をかけたが不在にて止め、委細の話は黒田に托する。昼飯御馳走になる。又黒田の電話を借りて竹沢と房州行の相談をしたが赤痢患者騒きのため愈々延期と決した。夫から帰り掛に合田に逢つた、不相変写真熱心の姿なり。暑中にて御苦労千万。

1904(明治37) 年7月17日

午後九島喜三郎夫妻近々成田へ転居するとて暇乞ひに来訪、間もなく竹沢も来り一同入浴、世間話しに時を過し大和田の丼を注文する。九島は明るい内に帰り、竹沢は残りて十一時過まで遊んだ。雨催ひにて自転車は預る。

1904(明治37) 年7月19日

朝八時に竹沢の自転車に乗つて出掛けたが、電話にて其不在なる事を知り帰宅す。午後竹沢来訪、何れへか輪行せんを発議し合田を尋ねたが差支へ、夫より竹沢の用向で浜松町の銀行までつきあひ、後佐野を東宮御所内に尋ね、一緒に小父さんをも網にかけ、芝の生ヶ洲に夜食に行く。奥の上等の坐敷を占領し、品川海の眺めと涼風との心地いはん方なし。入浴後清鮮のさしみと大盛りのあら煮で一杯やる。近来成功せる晩食会をなした。帰路三人共立寄り少時話す。

1904(明治37) 年7月20日

午後大塚を訪問し、リエージュ博覧会に竹沢採用の件を話す。夫より目黒に行つた。父上はリョマチスムの気味にて平臥せり。又小代の小供が水道に飛込み怪我をしたといつて大騒ぎであつた。茄子のしぎ焼の御馳走中々美味なり。八時半頃より帰宅すれば、小代小泉待ち合せて居たので少々つきあつた。本日露国軍艦津軽海峡通過の号外出づ。

1904(明治37) 年7月21日

今朝浅井より石膏破損の件返書到来、直様東宮御造営に赴き佐野と修繕方法の相談をなす。本日炎暑酷烈を極む。午後三時帝国ホテルに仏国新来客ウィコムト・ドローヌを訪問。杉竹の紹介に依る。一時間足らず会談の後帰る。

1904(明治37) 年7月22日

ドローヌ大尉との約に依り、早朝より学校に出掛ける。校長は不在。九時半ドローヌ来り学校にて生徒成績品を一覧せしめ、後帝室博物館に同行。石人及石棺に関する説明を与へた。十二時に分れる。小川町今文にて昼食後竹沢を訪ふ。途中炎熱満州軍隊を思ひやる。小石川にてはアイスクリームの御馳走になり五時より無理に辞し帰る。夜恵智十に出掛けたが途中にて大事な荷蘭陀銀貨を桜川町の煙草屋にて盗まれた、不愉快な次第であつた。恵智十では至極淋しく内派の話も面白からず。

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