1905(明治38) 年3月5日

今日は黒田の処で鴈の御馳走をするから昼食にこいという事で十一時半頃から出掛る。長原藤島中沢中村合田など来る。ソース・マイヨネーズを製するので合田と黒田と三人掛りでやつた。御馳走は中々大袈裟で無暗詰め込んだ。其半に磯谷が来て戦争の画に買人が出来て家なんか買つて大に景気ついて居る話をする。併し銀座の方は愈立退く事に運命は極つたのである。世は様々なもんというべし。後菊地も来る。熊野屋の倅も来て大人数となつた。夜雑誌編輯の相談のため和田の所に出掛けた。和田は此間から胃痛で寝て居る。三宅坂井会す。製版家の某も来て居た。十時頃帰宅。

1905(明治38) 年3月9日

一ツ橋より大学に立寄、上野に拠り途中時事の号外を求める。奉天占領の記事あり。是れは少し早過ぎた勝報であるが学校の食堂では此号外で賑やつた。

1905(明治38) 年3月10日

朝八時半大学に出掛る。此週は死刑の屍が三体も集り解剖室は大繁昌、中にも赤児殺しの婆の如きは珍らしき肥満せるものであつた。〔欄外に「奉天占領」〕

1905(明治38) 年3月14日

今年始めての暖気である。上野から帰途に大村氏帰朝の祝宴で梅川楼に赴く。来会者四十人許、例ながら久一さんが隣席での大気焔には凹まざるを得ない。久一さんは此会を以て奉天占領の祝捷として大に飲むという説である。又うん公がある芸者を捉へて重野の事でひやかしたが一向平気なもんであつた。帰り掛に先年岡崎の御馳走になつた時壱円おごつた下女が覚へて居て挨拶したには驚いた。

1905(明治38) 年3月15日

今日一ツ橋で本一の学生は春休みに近づいて今から欠席者が多分にある。言訳丈の稽古をして跡は巴里の珈琲談で時間を畢つた。〔欄外に「此夜鉄嶺占領」〕

1905(明治38) 年3月18日

午前は一ツ橋、午後目黒に出掛ける。商栄館へ送る画の事時間に間違ひありて人足は無駄になり馬鹿を見る。四時頃より帰宅すれば家の方でも間違へたのを持つて行つたので大騒ぎであつた。

1905(明治38) 年3月19日

是まで磯谷の陳列所で大分金が取れたので跡を所有主の糸川が引取つて真の美術館にするというので中勝が其事務員となり陳列を担当する訳である。今日は朝から来てくれというので九時に出掛けて行つたところが誰も居らず二階下の冷たい土間に埃りをあびて待つて居ると十時過に糸川と中勝も来り十一時半頃黒田もやつて来て色々内部の装飾等話す。昼飯は三橋亭の御馳走もなまぬるい口当りで却つてそんな用意をしてくれない方が有難かつたのである。彼是三時頃まで日当りのない冷たい空気を呼吸したゝめインフリュに冒されるのを明らかに感じた気持がする。之がために遂に一週間斗りも病床に臥すやうな事になつた。

1905(明治38) 年3月20日

朝自転車で一ツ橋に出掛る。予科は試験中でなく本一だけ普通の授業をなし、夫から試験問題の準備をなし、十二時に学校を出て帰途には永田町田中氏に立寄り黒田から頼まれた地所の相談をなし一時半頃帰宅、直様平臥する。発熱八度三分斗に及んだので伊東の来診を請いたるに速に来てくれた。診察後古画の話で一時間余も話して行つた。夜小泉来訪佐野を迎へにやる。

1905(明治38) 年3月22日

今月は予科の試験であるから病気を押して一ツ橋に出る。十時半にしまい帰りに医師の所に寄り十一時半帰宅。今日は熱はないが気分勝れず美術学校へは病気届を出す。

1905(明治38) 年3月25日

丁酉銀行約束手形の期日であるから車で書替の手数をやりに行く。新支配人に面会した。至極よさそうな爺さんである。九五〇の割引料二十円五十銭余を払つた。帰りには伊東氏に立寄り診察を請ふた。午後床を引かしたが休まなかつた。夜小泉佐野例会。

1905(明治38) 年3月26日

今日は久し振りで気持のいゝ天気になつたので午後自転車で外出。永田町古川氏を尋ねて黒田より地所譲受けの相談あることを話す。帰途に小代を尋ねる。少時の後佐野も来た。今夜九時に岩村が着するという事で迎ひに行こうといつて久し振りで何か会食する事を約す。五時半より三人で出掛けて例の今福で晩食、胃弱の際少々喰ひ過きた方である。四国町から街鉄の電車で銀座で下り佐野は近常で弗入れを買つた。新美術館に一寸立寄り停車場で聞けば九時半に着するのは大垣から来るのであつて神戸の汽車は十一時過でなければ来ないというので間違ひであることが分り岩村の宅の方に出掛けて行つた。果して主人は五時半に着いたのであるが我々の迎ひに行つた事を聞いて態々新橋に出掛けた跡であつた。仕方がないから其まゝ帰つた。

1905(明治38) 年3月27日

朝岩村を訪ひ旅中の話を聞く。欧洲の戦争に対する感動は日本で想像したやうなもんではないという事。今となつてはそれに違ひないと思はれる。それがために買入れ品等についても多くの便宜を得たとの事である。一時間斗話して帰る。夜こま同道新橋辺まで歩く。まだ夜寒の事であるから人出は少ない。小林時計屋から勧工場をひやかした。

1905(明治38) 年3月28日

朝九時より自転車で目黒に出掛けたるに白金にて父上に行逢ひ永田町に行つて直に帰るから待つて居れとの事。今日は一日暇であるからゆるりと構へる。十一時半頃父上帰宅せらる。すみは今日学校で免状が渡つたというので大喜びで昼頃に帰つて来た。それで来月よりは白金小学校に転学する都合になり寄留換の甲斐もある訳である。昼飯はよねが手練の西洋料理である。父上は例の時局談で持切りであつた。四時になり辞し麦酒会社道から広尾に出て帰つた。今朝彬に所得税を区役所に持たせてやつたところ領収証を取つて来ないので大にまごついたが無事であつた。

1905(明治38) 年3月29日

暖かになる。目黒からスープをこしらへて送つて来た。終日引込んで居る。午後万長にすみの袴を求めに行き後に色合いが俗であるから取換へることにした。夜高島大人来訪。九日に戦地より帰つたとの事で沙河陣地冬越しの談面白し。併し戦争も一度も見ないといつた。

1905(明治38) 年3月30日

今朝もよねがソップを持たせてよこした。胃病の養生のためと思はれる。昨日の市場は平和見越しの大騰貴。九鉄も一時六円三十銭に落ちたのが七円を少し越した。午後森元町の写真屋にて撮影す。高商卒業生の請求に応するためなり。夫より春暖に乗じ散歩、街鉄車に乗り銀座にて下り竹川町商栄館の様子を見に行く。画の数が少なく入場者は不平なりという。高林及び高橋と少時話し帰路に就く。夜熊崎来。

1905(明治38) 年3月31日

今朝こまは一井に歯の療治に行つた。午後自転車にて目黒に赴き途中白金台町の松村氏方に立寄りおすみ入校につき配慮せられたる礼を述べる。目黒には小供の袴を持つて渡たす。父上は在宅。光風の序文が出来たというて示された。微雨降り出したるにより自転車は預けて三時の汽車にて品川へ廻る。同処まで是まで六銭の所を参銭の通行税がかゝる。四時前に帰宅すれば雨は止んだ。

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