1905(明治38) 年4月22日 Saturday


四月二十二日 曇

朝高商。昼食後こまが裏で植木をほじくつて居るのに何とかいつて居る内僅かに十五分斗の時間に表口の下駄箱の上に並べてあつた靴を三足持つて行かれた。身上あり丈けやられて早速難儀をする。併し外から見へる所に置いたのが間違ひで止むを得ないとはいうものゝ如何にも胸屎が悪い訳である。〔欄外に「今夜始めて雷鳴を聞く。」〕
波羅的艦隊は其後矢張り仏領安南のカムラン湾に隠れて居て其目的とする所は未だに不明。我海軍の手筈は如何んなものであるかは猶更不明。此処暫くの間が余程面白いのである。若し昨年の実験が無かつたならば夫れこそ此上ない気味の悪い訳であろうが海軍の手並みは陸軍のそれに比べてより大なる偉功を奏して居れば国民は何時でも何処にても出逢ひさへすればお手の物と信用し切って居るところであるから敵艦の我領海に近くの事の一日も速やかならんを希望するやうな訳である。処で新嘉坡を出て北航しそうであつた艦隊が仏領内の港湾に碇泊して動かないとなつたので失望もする。又何か巧みがありそうで聊か気が揉める様になつて来た。此際世界の問題となつたのは仏国の中立問題で日本からは直ちに其説明を要めたるに対し極めて曖昧な返事で胡魔かして居る。一つ間違へば戦争が大分ゑらくなつて来そうでもある。英国も此際黙つて居る事は出来ない。新聞の議論は大分喧かましいやうである。こうなつて来ると露艦の手際が益々現はれて急に強くなつたやういひ囃してくる。それに後発の第三艦隊も今月の十七日に錫蘭沖に見えたとの報知もあり其到著を待つて大挙襲来するか又は反対に分れわかれに太平洋上に出現するならんといひ或は我艦隊を引寄せ遠距離の海上で一戦試みる計略なれば日本で此れに乗つてはならぬと心配する者もある。兎に角そういつまでもクズクズしても双方仕方がない。もう近い内に事変が生するに相違ないとは思はれる。市場は不相変強硬出現の日に六十円七十銭に昇つた。九鉄が八円六七十銭に居据りになつて隈伯の戦局悲観説も大なる影響を与へない。此処双方睨み合ひで第二の戦争をやつて居る。拙者も聊か雑兵の一人となつて居るのも妙な訳で事件の成り行きは余程面白い処である。畳籤でも吉が出る位であるから大丈夫なもんと思はれる。

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例)「1905/04/22 久米桂一郎日記データベース」(東京文化財研究所) https://www.tobunken.go.jp/materials/kume_diary/872891.html(閲覧日 2024-05-19)