1904(明治37) 年6月7日

午後出校生徒出席調査をなす。長岡又吉来校京都行石膏像荷造中にてありき、帰りがけに淡路町亀屋にて買物をなす。夜食と際例の不行届にて大に気持を悪くしたる際に敦翁来訪不相変の笑顔で心地開くる。早速三河台に彬を馳せたるに暫時にして来場す。今夜は不思議に図にあたり、着々優勢を示す。両氏退散の際再び不礼の所為ありて怒気激発最早恕すべからすと思はん。明朝は是非宣告を行ふべく種々の感情胸に迫りて眠る能はず。

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