本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1895(明治28) 年1月21日

 一月二十一日 (従軍日記) 林 大阪 万朝の諸氏ト臥龍村より成山廟ニ到 此処に廟有り 太陽を祭ると云あやしげなる僧二人出来りて案内ス 臥龍村近方の景ハ実ニいゝ 今日亦雪景色一層妙 寒サハ東京辺の寒さ位のものと思ハる

1895(明治28) 年1月22日

 一月二十二日 (従軍日記) 夜中大砲ノ音聞ユ 昨夜今朝出立ノ命下リタルニ依り其仕舞ヲシテ待テ居タレド議が変ジテ日延ト為ル 故ニ林 時事 大阪 万朝 山本等ト灯台見物ニ行タ

1895(明治28) 年1月24日

 一月二十四日 (従軍日記) 高安 林 矢島 大阪君等ト北海岸ノ一漁村ヨリ一と廻りして東方ノ成山廟ヲ見 断岸ノ上ヲ龍王宮迄到ル 今晩樺山中将ノ手紙ヲ一通受取ル

1895(明治28) 年1月25日

 一月二十五日 (従軍日記) 今朝九時半頃迄ニ荷の仕舞ヲ済まし十一人打連れて営城へ向けて出発ス 此海岸の景色遠景が地図メイタ雪の山ニ左ニ極平ナ波ノ少シモ無イ海ガ見エルカラ tableau ニ為ラズトモ目ニハ心地よし ヲマケニ天気が極イヽノデ興津辺の浜辺ヲ行く心地ス 荒川氏の一行ガアトカラ来テ一緒ニ為ツタ 荒川氏ヨリ久米 杉 トロンコワよりの手紙ヲ受取れり 直ニ開て此ノ晴々とした浜バタヲ歩きながら読ム 真ニ愉快也 途中ニテ寺内少将ドラブリー ボーガツタ 池内中佐 原田大尉等ニ逢フ 皆馬ニテ後ヨリ来り行過グ 栄城ニ近クニ従ヒ雪モ多クナリ道悪クナル 午後三時頃栄城ニ着ス 此城ハ金州ヨリ小サク又キタナシ 併シ此城の建築ハ随分古きものと見ゆ 夜ドラブリー氏の処ニ一寸夜話ニ行き帰りてねる 時ニ十時頃也 大砲ノ音聞る事しきりニして気分何となくすずし 城ニ入テ島村 松方ノ一行ニも逢フ

1895(明治28) 年1月26日

 一月二十六日 (従軍日記) 今日ハ支那の元日と聞けど此ノ城中少シモ正月ラシキ色ナシ 亡国ノ民ト云ものハ憐れナモノカナ 天気が悪ク仕方が無い折酒保が来タノデ lait condensé ナド買テ食タ 樺山中将へノ返詞ヲ書ク 今夜ハ皆酒ニ酔て大騒ヲヤラカス

1895(明治28) 年1月27日

 一月二十七日 (従軍日記) 朝九時半頃ニ皆々打連て栄城ヲ立チ埠柳村ニ泊る 此間里数凡我三里也と云 埠柳村ニハ画ニ為る可き場所多けれど明日ハ早く立つ事故画ナド描く暇なし 夕方松方 島村 荒川氏等の宿所ニ行き暫時談話シタリ 荒川氏より金米糖ヲ貰フて帰ル

1895(明治28) 年1月28日

 一月二十八日 (従軍日記) 朝起出て見れバ雪ハチラチラ夜の内積たるものと見へて中庭ニつなぎたる馬の背ナド白く為居たり 八時頃ニ立つ 町はづれの河原を行時ナドハ殆んど向風ニテ寒し 道ハ小坂ナレド日本と違ヒ総テ大形故広々として風透よし 併シ此ノ位風が有るお蔭で汗の出方が少なく仕合也 十時頃ニ数発ノ砲声聞ユ 人夫共迄此の音ヲ聞くと目がさめるナ足が独りでニ進むナなど云て行く 牙柊庄ニテ昼飯ヲ食ヒ二時半頃ニ橋頭集と云村ニ着ス 今日の宿ハ昨夜ニ引カヘ大層立派也 今夜ハ床の上ニねる事が出来 此の村ハ昨日占領したるよしニテ村の者共逃げ出たる者多しと見へ我々の宿たる内ニモ家具衣類等も引散し有りたり 敵は此処より二里先ニ居るとか 威海衛ハ此処より直径僅三里也と云 今日歩きたる里数ハ凡ソ二万三千歩也 之レトロンコアより貰たるポドメートルの示ス所也と知る可し

1895(明治28) 年1月29日

 一月二十九日 雪 (従軍日記) 今日四時過に孟家庄迄行けと云命令が下つたニ依り朝起ると直ニ荷造をして出立仕度ニ及びたり 孟家庄と云処ハ僅カ一里半計の処と聞きたれば余り早くも立てず昼過ニ出懸く 昼めしハ渡ラヌノデ芋のうでタノヲ食てごまかす 孟家庄ハ橋頭集より半道計の処也 余りニ早クツイタ故二師団の陣所ナル張家口子と云処を見ニ行 孟家庄の西北一里余の地ニして谷川ニ沿ふたる村ニて山の麓ニ在り 今朝五時頃より二時間程戦ふたる由かたるを聞いたり 先程孟家庄の入口にて村田少佐ニ逢ふ

1895(明治28) 年1月30日

 一月三十日 (従軍日記) 昨夜十時頃伝令使が来て明午前四時半ニ司令官出陣のよし申来る 此レヨリ皆々起出て出発の用意を為し十二時近キ頃ねる 一寸ねむつたと思ふ内に早三時故起出仕度して立つ 暗き故一同余り散るまじと云ふ約束にていつもと違ヒ一と筋ニ為て行く 我々ハ張家口ノ右方ニ見ユル石堂有ル山ノ上ニ居テ戦状ヲ見ル可シと云命故其山ヲ当ニ出懸ク 昨日此ノ張家口迄来て置たお蔭で張家口迄の道ハやみなれど難無く行きたれど石堂の有る山とハどれだか知れず 張家口の入口ノ圃道ノ様ナ小道ヲ右ニ取て行けバとうとう分らなくなる 此の頃ハもう東も白み夜が明た 仕方ナク林君が先登ニテ前ニ見える山に人影ノ見ユルヲあてニ雪に足をすべらしながらもよぢ登る 未だ絶頂ニ達セヌ内ニ大砲小銃の音が聞へ始メタ 前ニ見ヘタ人影ハ露国大佐と池田少佐也 併我々ノ上ル可キ山ノ此ノ山ニアラデ之レヨリ北方凡二千メートル即チ石の堂も此処カラ見レバよく分る也 目ノ前ニ在ル二師団ノ戦ハ其儘ニシテ置キ山の峯ヲ上つたり下つたり大骨折ニテ石堂ノ有ル山ニ登り得タリ 此ノ山ノ名ハフエイテンと云ヨシ 此処ニ致シ時ハ日も地平線上ニあがつて□□(原文不明)石堂ノ片ひらハ黄く為た 二師団ノ戦ハ已ニ片がついたものにや銃声も聞ヘズ 其代りニ直正面ニ見ユル百尺崖処ノ砲台ヲ攻撃スル我艦隊ノ運動がしきりに為て来タ 其内ニ第六師団ト覚しく右手ノ方カラ出て来タル一隊かけ足ニテ川を渡り前進スルナド中々ニ心地ヨシ しばらく有つて我軍艦中ノ一艘ニ煙ガ盛ニ起リ沖ノ方ニ走ル 是正しく敵の弾丸ノ為ニ失火セシモノカ 此ノ様ヲ見タ時ニハ甚ダ残念デタマラナカツタガ間も無ク鎮火セシモノト見ヘタノデ夫で安心した 此ノ山ニ登ル為メ汗ダラケニ為テ仕舞ヒ山の上に来レバ風がヒユヒユ Courant d’air のナンノカンノと云さわぎぢや無ク丸デ氷ニ包マレテ居る様だつた 併し此の戦の最中ニ寒いからと云て逃るわけニも不行 風を引く事ハ覚悟して仕舞つた かれこれして居ル内ニ昼近ク為て腹がへつて来たから石堂ノ中ニ入つて氷ノ如きめしをむしやむしやと食ふ 腹が冷へきつて居ル処へ中から冷やしたので身振が出タ 従軍以来こんな寒い思ひをした事ハナイと山本が云た 此の時ニ敵ノ陸地防御ノ一ノ砲台ニ火が起つたるものゝ如く煙の出ヲ見ル 夫レニ引続キ海岸ニ一と□(原文不明)りの煙上れり 砲声の幽き音聞ユ 之レ海岸ニ在ル砲台ノ一が破裂したるものか 之レヨリ三砲台ノ上ニ立テ有りし旗モ次第ニ見へずなり 砲声も減じぬ 一同打連れて軍司令部の有りと覚しき処ヲ探シ山ノ西方ニ下リ行ク 谷合ノ処ニ到る比ニ向の方ヨリ三十人計の支那人がやつて来ル 赤き被物ヲ被たものなどがいかにも敗兵らしく見ゆるのでいよいよ此の新聞隊ニて一と戦セント銘々レボルベールナド手ニ持チ進ム 近づけバ敗兵どころか此の辺の百姓共が女子供を引連れ大きな包ナドカヽヘテ山へ逃げ込む処也 赤く見へて清兵の軍服と見しハ子供の被物なりけれバ大笑となりぬ 今夜ハ温泉湯と云村ニ泊る 此の辺の土民ハ今迄見しモノヨリ余程従順也 先程山より下りし処の村ニテ誰れか一農夫ニ向ヒ芋を呉れと云ひしニ其者ハ勿論隣家ノ者迄も芋を一と抱へ持て出て来タ 我々の宿をしたる内の者共も親切ニ施す 老夫婦ニ娘一人有り 支那の女ニ似合ハズ我々を少シモ怖れず笑面ナドスルこと感心也 大西庄ノ糞親爺の女房や子供ナドハ我々が逗留して居た間ハチツトモ部屋から出ズ 又栄城ニテハ我々ノ面サヘ見レバワアト泣出スナドどいつもこいつもへんてこな唐人計だつたノニ比ブレバ此家の者共ハ開ケタモノダワイ

1895(明治28) 年1月31日

 一月三十一日 (従軍日記) 今日ハ此処ニ滞在ノ命下りたれバ先づ温泉ニ面洗ニ行 此の温泉と云ハ河原ヨリわき出るものニテ丁度いゝ加減の温サ也 日本ナドなれバ中々こんなニ打すてゝ居る可き処ぢやないが只河原の砂地が半まい敷計くぼめ夫レカラ其湯が川ノ水へ流れ込む様ニ小さナ溝が掘て有る計りナリ 此の温泉が此の地の名と為りし事明也 全体支那の景色ニハオレハ感伏して居ルガ中でも此ノ温泉湯などハ素人も好くいゝ景色也 温泉ノ有る辺カラフエイテンへ向つての景色久米の一昨年京都で描た加茂川ノ画ニよく似たり 少シ写生ニデモ出懸て見様カナド思つて居ル内ニ霰が降り出シ間モ無ク雪と為り風も盛ニ吹き出したから内ごもりと極む 皆ノムチヤニしやれるのなど聞て笑て暮す さてしやれも笑もはたと止で仕舞ヒ皆々考へ込だハ大寺少将と一人新聞記者が昨日戦死したる報ニ接したる時也けり

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