本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1888(明治21) 年6月1日

 六月一日附 パリ発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事至極壮健勉強罷在候間御休神可被下候 文蔵様ニハ二三日前当府御出発仏国の南方モンペリエト申地ヘ御越被遊候 来ル七月中旬ニハ日本ヘ御帰りの御積の由承候 此頃ハ気候余程暖かニ相成学校の生徒モ十の七八ハ田舍ニ出掛ケ居候 随分淋しき事ニ御座候 教師ハ不相変深切ニ世話致し呉れ候間御休神可被下候 去る日曜ニハ同氏別荘ニテ夜食之馳走などニ相成候 仕合の事に御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝

1888(明治21) 年6月8日

 六月八日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)先便より申上候通り去月ハグレト申田舍に二週間程滞在仕居景色画の稽古など仕愉快相極入申候 当仏国ニハ之レゾト申程の景色ハ無御座候得共矢張田舍ハ何国も同し田舍ニテ甚ダ面白事ニ御座候 右グレにて久し振ニ蛙の声を聞き左の通り例のごまかし歌を作り申候 御一笑被下度候  蛙なく声を聞つゝまとろめは夢は遥に故郷の空 (中略)グレト申処ハ真ノ田舍ニハ御座候得共随分画人連中ニ知られたる地ニて来遊者ハ大抵画かきニて御座候 併シ其画人中仏人ハ甚ダ少く私の下宿致し候旅店ニハ同宿者十四五人有之候中米人十人計り居り其他ハ皆英人にて食事の時などは皆英語ヲ話し候得バ殆ンド英国か米国ニ行きたる様心地致し候(中略) 私二三日前画かき部屋一つ借り受ケ申候 一ヶ年分五百五十仏ニテ三ヶ月分ヅヽ払ふ事ニ御座候 一ヶ月が凡ソ日本の金ニテ十円位ニ上り申候 日本ニ取リテハ随分高き者ニ御座候得共当地ニてハ一ヶ年七八百仏より千仏位出さねば一寸したる画室ハ無御座候 併し私ハ未ダ立派な画をかくと申訳ニも無御座候へば此ノ五百五十仏の画室ニて充分ニ御座候 尤も今迄ハおもに焼ずみの画をかき居候得共此方ハ少し形も出来る様相成候ニ付今よりハ油画の方をなる可く勉強仕度依而入費の増すをも顧みず右画室を借受申候次第ニ御座候 左様御承知被下度候(後略) 父上様  清輝拝

1888(明治21) 年6月15日

 六月十五日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)このまへのびんから父上様に申あげましたとうりわたしはこんどゑをかくところを一つかりました おかねはたかくかゝりますけれどもけいこになることですからはりこみました そうしてこのつぎのしゆうかんからひとをやとひましてそれをまるはだかにいたしそうしてそのゑをかくつもりです これができましたらぶんぞうさんがにつぽんにもつておかへりなさいますはづですからそのときにごらんなさつてくださいまし はだかになつてじつとしてたつているひとをたのむのになかなかおかねがたくさんいりますけれどもこんどのはぶんぞうさんがはらつてくださるとのことにてまことにまことにしやわせなことでございます もうこのごろハたゞやきずみでくろくかくゑはすこしできるようになりましたからこれからはあぶらゑを一つしつぺけいこしなければなりませんよ(後略) 母上様  新太より

1888(明治21) 年6月29日

 六月二十九日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)わたしのいくがつかうはもうおやすみになりましたからこのごろハちよつとしたほかのがつこうにいつてべんきようをいたしますけれどもおもうようでハございません それですからうちにひとをたのんでひとりでかきたいものとおもいますけれどもこのほうハおかねがたくさんかゝるのでまことにへいこうをいたしてをります さくじつわたしのともだちのれむすでると申あめりかのやつのあねさんがおよめいりをいたしました そのれむすでるといふやつとはこないだ一しよにいなかにいつておつたやつにてそのあねさんもやつぱりわたくしたちといなかにきてをりました(中略) このまへのにちようびにはらさんのうちにあすびにいきまして三じすぎからはらさんとおかみさん わたしと三人にてばしやにのりぼわどぶろにゆと申こうゑんちにまいりました はらさんのうちでばんめしをごちそうになりそのうちにあめがたいそうつよくふつてまいりましてもうやむかやむかとおもひながらよるおそくまでながばなしをいたしました なかなかおもしろいことでした(後略) 母上様  新太拝

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