本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1901(明治34) 年2月26日

 二月二十六日 火 晴れ (欧洲出張日記) 朝十時前に内を出て十二時半頃に帰つた 此の間に見たのハサンチ・アポストリ寺 ガレリヤ・ドリア サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴア パンテオン サンタゴスチノ サンタ・マリヤ・デラ・パアチエ也 午後見たのはサンタ・マリヤ・デル・ポポロ丈だ パレ・バルベリニにも行たが修繕中と云ふ事にて見る事が出来ず ポポロを見てからウキラ・ピンチヨといふ公園地を散歩した 音楽も有り馬車などで立派な人が沢山来て居た 此ハ羅馬のボワドブーロニユならん 音楽をきくのにハ皆馬車を止めさして其れに乗つた儘で聞て居る 随分不意気なり カツフエも一軒あるが甚だ不景気な吾々は其カッフエに立寄つて茶を飲だ 器物等至てぢゞむさし ピンチヨはナポレオン一世がこんな風にこしらへさした処だといふ 羅馬市の北の高台だから市一面を見下していい眺めだ 今日の見物は名家のお墓参りと云ふ如きものであつた 第一にサンチ・アポストリ寺でミケランジユの墓を見る 只の家で云へバ台所口とでも云ふべき路次の中に有つて誠にけち臭いなさけないものだ しかも彼程に立派なものをこしらへた彼程の大家にこんなつまらない墓をこしらへてやつたかと思へバ気之毒な感がする それからサンタ・マリヤ・ソプラ・ミネルヴアにハアンジエリコの墓がありパンテオンにはラフアエルの墓が有る ラフアエルは一番割がいゝ パンテオンに這入て居るのだから先づ申分はなからう 先頃弑せられた当国の王も此処に葬られて居る 王の墓にハ随分お参りに来る人が有る 憲兵が二人墓前に控へて居る 参詣人は其処に出して有る帳面に記名して行く ガレリア・ドリアは一つのパレーを陳列館に直したもので奇麗な家だ 一人一仏払つて見る 此処で一番名高いのは西班牙のヴエラスケス筆の法王イノサン十世の肖像だ 隅の小さな一室に大事にしてある 達者な筆だ 又ラフアエルの筆だと云ふ一面の額にバルトロとバルドと云二人の男の肖像がかいてあるのが有る ジヤヌダラゴンの肖像はルウヴルの画の写しだと云ふ説もあり 又此の画はラフアエルでなくレオナールドヴアンシだといふ説もある 何がなんだかはつきりハ分らないが兎に角女の顔もいゝし又画も面白い 目や口の具合でハレオナール風が有る 又此処で改めて見るせいか此の肖像の方がルーブルのよりよく出来てハ居ないかと思ハれる位だ 其他和蘭陀の画家の作も可也見へた サンタ・マリヤ・ソプラ・ミネルヴアはミネルヴアの社の跡に建てたもので十三世紀から十四世紀へかけて出来した寺だ 此の寺にハアンゼリコの墓の外にミケンランジユの作の耶蘇の像が有る 右の足に黄銅の沓がはかして又腰に黄銅の褌が巻き付けてある 之れ等は無論後世の仕事だ 足は信者がむやみに唇をおつ付けるので石がすり切れたからこう云ふ事にしたのだと云ふ 褌は丸裸でハ見苦しいと云ふ下らない考から来たのだろうが何にしろ此の褌と沓で大に見にくゝ為つて居る 尤も此の耶蘇はミケランジユが作りかけてフリツジといふ人が仕上げたものだそうだ パンテオンの建築は実に壮快なものだ 堂の前面に十六本の大理石の大きな柱を並べたのは尤も心地がいゝ 羅馬帝国時代の残り物としてハ甚だ貴い建物だ 今度羅馬で見た建物の内でオレは此のパンテオンが一番気に入つた サンタゴスチノにはラフアエルがミケランジユの真似をしてかいたといふプロフエト・イザユの図が有るがぼんやりなつて居てよくは分らず サンタ・マリヤ・デラ・パアチエにはラフアエルがチモテヲ・デラ・ウヰツテを手伝ハしてかいたといふシビル Sibylles の図が有 立派なものだ 其向ひ側にぺルツジ筆のサント・マリヤ サント・ビルジツト サント・カトリヌ及びカルヂナル・ポンゼツチが一緒に居る図が有る 之れも甘いものだ サンタ・マリヤ・デル・ポポロではピンチユリツキオの耶蘇降誕の図が尤も見物だ

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