本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1901(明治34) 年2月25日

 二月二十五日 月 晴 (欧洲出張日記) 朝九時に起十時頃から見物を始め先づパレ・フアルネジヌを見る 門番に一人前一仏を払つて入る 門の正面は植木の植てある一寸した庭で家は右手にある 門より玄関までは十間位のもの 四角な建物で千五百五年から十年までの間にラフアエルの下図に依つて或る建築師が建てたのだと云ふ事だ 玄関を這入つた処の広間の天井の画が見物だ アムールとプシケの話を絵にしたものだ 中々愉快なコンポジシヨンだ ラフアエルの下図で其門人等がかいたのハいゝが十七世紀の末に羅馬の画工のマラツタといふ男が手をいれたといふので色が重苦しく為つて居る処や又人物の主に腕や何かの形のまづい処などが有る 其次の部屋にハトリヨンフ・ド・ガラテといふ題の壁画が有る これは大部分ラフアエルの直筆で只右の一部が他の者の筆だそうだ 此の室の欄間に半円形の画が並んで居る これハペルセとメヂユーズの話でセバスチアン・デル・ピヨンボの筆だ 人物の逆落しに為つたのなどは半円にハ至極似合つたコンポジシヨンだ 総て空や雲の色がよく出来て居る 是等の画と並んで隅の方に非常に大きな頭が木炭でかいてあるが甚だ不似合なものだ 筆者はミケランジユだといふがどうだか 果してミケランジユならバミケランジユがかいたものを切つて此処に張り付けたもので此の室の為にかいたものではなからう 二階はしまつて居て見る事が出来なかつた 此処を出て直筋向ふのパレ・コルシニに入る 此の建物は今は政府のもので千八百九十八年以来絵画摺物の陳列館に為つて居るが元はコルシニ家の所有であつた 陳列所ハ二階で木戸銭は矢張一仏 又門番がいつぞやの大洪水の時にチーブルの水が此処まで上つたと云つて玄関の柱に筋の付けてあるのを見せてニコニコやりお金を頂く 此の図でハ何処のミユゼに行ても番人が或る一室の戸を開いて特別に見せてやるといふやうな風をして金をねだる 甚だしいのハ只其処に陳列してあるものを指さして分らない言葉で何んだか下らない説明をして帽子を取つてどうぞ一文といふ様子をして見せる こう云ふ具合で二銭三銭と一日にどの位せしめられるか知れない 此のミユゼハ各国の品がごつたまぜで大きなコンポジシヨンのものハ少ない 肖像 風景画等が主だ アンゼリコの筆でジユジユマンデルニエが真中で左右一面づつ三面一つの小さい額に這入つたものが有る 又オルベインの可也大きな至極丁寧な肖像画がある 夫れからサントノフリヨ寺に行く 此の寺は高見で日本での神社仏閣の位置のやうな処に有る 羅馬の北東を見晴すいかニもひつそりしたお寺らしい処だ 何処に門番が居るか分らないからズーツと中に這入つて見ると四角な中庭に出た 廻りの廊下の壁にハ古いフレスクが有る 其廊下の右の隅に鳴子が付て居たからそれを引たら戸を開いて白い被物をきた女が出た 薬の香がぷんぷんして居る ハテ此処は病院だと見へる 其女の指図で右手の壁にぶら下つて居る半鐘をギランと鳴らした やがて一人の坊主が廊下の左の隅から現ハれて案内を始めた 本堂にハペリユツヂにピンチユリキオのフレスクがある それから宿坊とでも云何き処に案内す これハ入口の右の手也 直に二階へ上り縁側の如き処に出る 其処の右手の壁の上に立派な画が有 耶蘇母子を一人の坊主の如き者が拝んで居る図で地は金色 レオナルドヴアンシがかいたものだ 実に落着いたいゝ画だ 惜い事にハ人物の指などは形が少しくづれて居るやうだ 少し進むと左手に部屋が二つある 室内には古い椅子や又古い書物や書附けの如きものが陳列してある 是等の物品ハトルコアドタアスが使つて居たもので千五百九十五年の四月二十五日にタアスが死んだのハ即ち此処だそうだ タアスの肖像も置てある 成る程今此の室に品物はいかにもタアスが使用したものニハ違なかろうが此の室などはタアスの死後今日までに随分いろいろな姿に改って只窓の位置や間取がもとの儘だらう 併し器具丈でも有名な人のものだと云て保存して其人の居たと云ふ場所に並べてこうして後世の者に見せるといふ事ハ実ニいゝ事だ 此処の王室でハ王が崩ぜらるれバ其王の住ハれた宮殿は生前の儘にして残して置て次の王は別な処に住ハれるといふ例だと聞たが王室などでハそうあつてしかるべしだ 国王はつまり其国の其時代の尤も立派な点を代表して居るものであり又室内の装飾などハ其持王の意匠を立派に代表するものだから各時代の王の宮殿或は居間を其儘保存して置くのハ後世の為中々いゝ参考になるだらうと思ハれる 一時頃に宿屋に帰り昼飯をすませて又出る 今度は方角をかへて東南の方へ行きミユゼ・ド・ラトランを始め隣のサン・ジヤン・ド・ラトラン寺 西北へ戻つてサン・クレマンテ寺 それよりコリゼへ出フオーロムの中をうろつき廻り夕方宿屋へ帰る ミユゼ・ド・ラトランは千五百年の後半期に出来た家でプロフアス部とクレチヤン部の二つに分けてある 今日はプロフアス部は閉てあるのでクレチヤン部丈見る 古代の石棺などが並べてある 又古画の室もある クリウエリ フヰリポ・リピ ベノゾ・ゴツゾリ等の宗教画が有るが総て画の数は少ない 又皆これハと云て肝をつぶす程のものでもない 一度見て通つたのでハあとになつてどんな画だつたらうかと思ひ出しにくい位のものだ それから新らしい糞の如き画の大きなのが沢山並べてある 是等の室ハ大またで通抜る 幸にして一枚も記憶に存せず サン・ジヤン・ド・ラトロン寺は千年程前に耶蘇教に帰依した羅馬帝のコンスタンタンが造らしたものでそれから修繕を加へるやら造足しをするやらで火事にも逢つたがどうやらこうやら今日まで持つて来た 本堂の石段を上り左手の隅に大きな石像があるがこれがコンスタンタン帝の像でこれハ後世テルム・ド・コンスタンタンの古跡から掘り出して此処に安置したものだと云ふ 本堂の中にハ一の柱の横にあるジヨツトの画位のものでこれぞと云ふ程のものハない 又宿坊の中庭を見る 周囲に立ち並んで居るモザイツクをはめ入んだねぢくれた柱は面白い 十三世紀にこしらへたものだ 尤も奇なものは四本の石の柱で持たした大理石の板があるがこれは耶蘇の身長を示したものだそうだ 地から石の板までが一メートル八十三 大きな男だなア 中庭の真中に井戸が有る 其井戸側は大理石に彫刻がしてある これがサマリタンの井戸の側だ 又此の寺にハ耶蘇が最後の食事した時のテーブルの板が有るそうだ もうそんなものは見なかつた 頼朝公御幼少の舎利頭的宝物だ サン・クレマンテ寺は小さい寺だが古い事に至てハ羅馬中屈指のものだ 今の寺はいつ出来たのだかはつきりは分らないが多分十二世紀頃のものだらうと云ふ事だ 此の寺の下に今一つ寺がある これが以前の寺で七百七十二年頃に修繕したといふ事が知れて居る丈で出来た年月は分らない 案内者が棒の先に蝋燭を付けて地の下へ這入つて古い寺を見せた 大きなトラベルタンで積み上げてあり大理石の立派な柱が並んで居る 又極ぶきつちよな宗教的の壁画が残つて居る 此の古い寺の奥に今一段下へ降る石段が有るけれども其石段の半まで水が来て居るので下にはどんなものが有るか知る事は出来ない サテ一番新らしい上部の寺には結構な壁画が有る マサチオの筆でサント・カトリヌの一代記だ サント・カトリヌがドクトル連と争論をして居る図など中々高尚だ フオロムはポンペイなどよりは無論大袈裟なものだ バジリツク・ド・コンスタンタンなどハ非常なもんであつたに違ない 何分にも皆ごてごてにこわれて居るから一寸見るのにハポンペイの方が面白味が有る 今掘出し方や修復やしきりにやつて居るからこれが古代の姿に略出来上った時にハ実に二つとないいゝ見物であるだらう 此処の見物料ハ一人一仏なり コリゼはフオロムの垣の外に有る 其広大な事ハ実に可驚だ 愉快な建物さ 夜風呂に入る 実に久し振だ 去年の七月の極始め馬耳塞港に着く前日に船中で風呂ニ這入つた以来今日まで風呂に入らず サテ這入つて見れバ決して悪い気持ぢやない(十二時少し過ねる)

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