本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1901(明治34) 年2月15日

 二月十五日 金 チユラン (欧洲出張日記) 今朝未明にモダーヌ駅で伊太利領に入るので手荷物の税関検査や汽車の乗換をする間に熱いシヨコラーを一杯飲んで暖まつたお蔭で伊太利の汽車に乗込んでから心持よく一と寝入りやつて目が覚めたのは七時過であつた 車室の水蒸気が窓の硝子に凍りついて真白になつたのを爪の先でガシガシやつて外をのそひて見ると前には雪の積んだ山が聳えてゐる まだスニイ山の近所か知らん そうすればチユランに着くには大分間があるからもう一ト息やらうと思ひ眠らうとして見たが股のあたりがイヤに寒むい様でねられず 其内に向ふに座つて居る仏人が話をし始めた 此男は肺病専門の医者でアレキタンドリヤ辺に招かれて行くのだそうだ 全体昨日の午前に巴里を立つ時に乗込んだ汽車は馬耳塞への直行列車であつたから一ト走りで午後三時過にはマーコンへ着いたが是からは真直に南へリヨンの方へ行つてしまうので伊太利へ行くには此処で他の汽車に乗換へなければならぬ 処が其汽車は夜に入らなければ来ないというので止むを得ず茲で下りて市中を見物に出かけた マーコンという地名は葡萄酒の名で随分おなじみになつてゐるが其土地を踏むのは始めてだ ひつそりした田舎の一都会なれどラマルチンの生地と聞けば床しく思はれる ソオヌと云ふ大きな河の両側にある町で停車場から川の方へ段々に下り坂になつて居る 川向ふは平地でそこにも町がある 川の手前は片側町でカツフエやホテルなどが軒を並べた処があるが何れも大いに不景気な様子に見受けた 其中の一つの宿屋にはいつた ホテル・ソーバージユといふので此ホテルの入口の左の一部は咖啡店になつてゐる 客も八九人許りゐた 皆商人らしい風体である 此咖啡店の一隅に陣取つて日本や巴里にやる手紙を書いて時を過す 晩飯も此宿屋の食堂でやつた ターブル・ドートで食事をするものは十七八人も居た これも皆商人連らしかつた 色々くだらない議論などしてゐるのを聞いて独りで別のターブルで食つた どうしてこう云連中は皆自分が一番物事を能く知つてゐて一番智慧のあるものだと人に見せてやろうという様に話をするのだろうか 妙なもんだ 九時半にチユラン行の汽車が出る筈だつたが三十分程後れて発車し其上モダーヌで又一時間ばかり手間を取つたからチユランへ着いたのは十時過だつた 尤も伊太利の時刻は巴里の時より五十五分丈進んでゐる 昨夜マーコンのステーシヨンから電信をかけて置いたから久米と佐野が迎に来て居た 一番先きに聞いたのは久米のミランの自慢さ ホテル・テルミニユスで一緒に昼飯を食べて直に三人でミユゼを見に行く 久米と佐野は既に一度見たのだそうだが是非もう一度行けといつてとうとう一緒に行く事と為つた 一つの博物館で古代部と絵画部との二つに別けてあつて一方の縦覧料が一人一フランだ 杖の代は取らない 是れは巴里とは全く反対だ 先づ絵画部には入る 間取りの具合は悪くないが陳列は雑ぜこぜで国別にも時代別にもなつて居ない 又非常な名画という程のものは少ない ボチチエリの画も三四枚ある ドナテロの石も一つ見当つた 尤も彫刻物は殆んどない 肖像のやうなものがあちこちに少し許りある丈だ 一寸面白いと思つたのはレムブラントの油画で小さな画だが年寄りが火にあたりながら何か考へて居るか居眠りをして居るかと云ふ体の図がある 是れは中々気持よく出来てゐるやうだ 珍らしいと思つたのは日本の工部大学校時分の画の教師であつたと云フオンタネジという人の画が二枚ある 二枚共人物入りの小さい風景だ 是等のものを見ると決して上手と云程のかきてゞは無かつたらしい 三時の汽車でゼノワへ立つ 伊太利の鉄道では仏蘭西や日本での様に何キロとか何貫目かまでは乗車券を見せて無代で手荷物を送るといふことが出来ないから一寸した物でも荷物として預けた日にはそれ丈の賃銭を払はせられるのである 又此国の汽車の時間の勘定は一風変つて居る 午前何時といふ事をやらないで午前の一時が第一時で昼の十二時までは其儘で午後一時は第十三時で十四 十五 十六時と二十四時までぶつこぬきに数へるから慣れないと一寸分らないでまごつく事がある

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