1904(明治37) 年12月9日

午前目黒に出掛けた。父上は南の坐敷にて書き物中であつた。早稲田より日本美術論執筆の課役が当つたとの事である。何とかしてのがれたいものだと思つて居る。茶碗蒸の御馳走を受け乾物の珍品を色々貰ひ携へて帰る。午後一ツ橋より帰途床屋に立寄り頭部の怪我も痕跡も留めぬやうになつた。夜佐野が来て美術学校より石膏の製作費を受取つた事を告く。後小代も来た。

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