1905(明治38) 年2月3日

朝八時より大学で解剖実験、可なり立派な屍体があつた。十時に畢り青木堂でウ井スキー二本を竹沢に届ける事を命じ一寸原町の宅に立寄りしも留守であつた。日本橋丁酉支店に赴く。鬼塚不在で九鉄処分は出来ず。夜熊崎稽古に来る。松崎の失敗其他高商の内情をきく。

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