1905(明治38) 年2月18日

午後和田来り必迫の金調談をなす。明日長原に逢ふ事を約す。今日は例会日なれど誰も来なかつた。今日露国センジュ大公暗殺の号外出づ。内乱が漸く鎮定したかと思ふと又々こんな騒動が起る。専制国の末路は到底擠ふべきにあらず。此変乱に乗じて波得堡の罷工再炎満州軍の輸送は杜絶する等悉く我に取りて有利の報道あり、そふかと思ふと一方には又第三艦隊はノソノソ出掛けるやうな按配である。万事姑息の計ばかりて大勢の帰する所は推知し難からざるなり。

to page top