本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1897(明治30) 年3月1日

 三月一日 月 朝永富の処ニ使をやつて明日マエ氏と一緒ニ散歩などする事ニ付て代をやつて貰ふ事を頼みなどした 午後杉が来 又菊地も来てカルタ取などした 皆帰つてマエ氏ニ手紙を出し夜食ハ伊藤と二人 夜十一時半頃まで伊藤が話して帰つた

1897(明治30) 年3月2日

 三月二日 火 朝学校ニ出 昼めしハ藤島 菊地を招て精養軒でやらかし食後又一寸学校ニ行て校長ニ面会しそれから藤 菊の二人とぼつぼつ歩き三崎町から気車で四谷まで来 藤ニ別れて菊地と内ニ帰つたら岡田が来て待て居た 久振ニ逢つて実ニうれし 菊地ト二人で夜食をして夫れから杉の処ニ出かけた 松波が来て居り又杉の妹夫婦が居て皆で二十一をやり十一時過まで遊で帰つた

1897(明治30) 年3月3日

 三月三日 水 朝笄ニ今度鹿児島志布志より来た手紙を持て行き相談して帰る 帰ると間も無く大久保利武が樺山伯からの便で父上への伝言を頼みニ来た めし後ニ新二郎を頼で笄へ行て貰つた 三時過ニ大熊が来 晩めし後まで居て帰る 今日ハモデルは朝から来て居たが一向かけず 昼後に少し仕事した 夜食後杉 合田 松波 菊地等が集り十一時頃まで二十一をやる 合たハ十二時まで話して帰る 夜皆が帰つてから母上とストーブの前で四方山の話 母上からオレの Maman naturelle ニ付ての成行等を聞た

1897(明治30) 年3月4日

 三月四日 木 今日はモデルは小川花の妹だ 三時頃ニ乙羽氏が来 四時頃ニ杉が来た 仕事ハ五時にやめた 夜食ニ杉 合田 伊藤が集まり食後に久米 佐野 和田の三人が来 オレ達で都合七人 又例の二十一を十時までやる 皆の帰るのを送つて西の窪まで散歩した 今夜ハいやニ暖い様だつたら雨がポツポツやつて来た

1897(明治30) 年3月5日

 三月五日 金 今日ははつきりした天気ぢやないが寒くは無い 終日昨日のモデルを相手に仕事した これで大抵今度の裸は出来上りだ 小川花の妹の名はこうと云のだ 四時頃ニ佐野が来て暗く為つてから一緒に出かけ溜池でめしを食い十二時頃まで一緒ニ居て内へ帰つた 今日四時半頃から急ニ風が強く為た 夜までもひどく吹て居る

1897(明治30) 年3月6日

 三月六日 土 昼めしを食てから学校に出た 岡田 長原 菊地等に逢つた 菊地が田舍行を賛成したから授業を終ると直ニ佐野の処ニかけ付けた 此処で菊地と会した 三人で新橋のわきの牛屋でめしを食ひ気車で藤沢へ行く

1897(明治30) 年3月7日

 三月七日 日 朝七時半頃ニ起き三人で宿を出てステーシヨンのそばのめし屋でめしを食ひ正宗なども少し引かけ江の島の方へ出かけた 鎌倉の三ツ橋で昼めしを食ひ腹のよくなつたのやつかれなどでいゝ心地で少しねむり床の置物で力持などして遊び又大仏まで散歩した 別荘にも一寸立寄り五時頃の気車に乗る 此の時雨が降り出した 新橋ステーシヨンで菊地ニ別れ佐野と二人で溜池でめしを食ひゆつくりして十一時半頃ニ内へ帰る 雨ハ益甚し

1897(明治30) 年3月8日

 三月八日 月 十時過ニ起きた 午後二時頃ニ杉が来 夕方ニなつて松波 小代が来 晩めしハ伊 松 小と四人で食た めし後ニ杉も一緒で五人で例の二十一 十時前ニ合田も来た 皆十一時半頃ニ引上げた

1897(明治30) 年3月9日

 三月九日 火 雨 学校ニ出る前ニ加治木氏が来て暫時応対した 学校から安藤 菊地 藤島の三人と上野の下の紫草館で昼めしを食ひ後安藤と目金まで歩いて来た 内へ帰つて雨がしよぼしよぼ降るのに木植の下知などした 其内ニ夜ニなつた 母上と一緒ニめしを食ひそれから平田泰輔氏へ出す手紙をかき明日から始める画の下画などを考へたり唐詩選など読で居る内ニ早十二時ニなつた 今日又杉の処から小説が一冊届いて来た Le Jardin Décret

1897(明治30) 年3月10日

 三月十日 水 風強し 朝からモデルが来て居たけれどもストーヴの煙出しがこわれたり又台湾から帰つて来た重野と云人が伝言を云ひニ見へたりかれこれで仕事せず 午後丈勉強した 今日ハ新たに裸を一枚始めた 四時頃ニ杉が来 一緒ニ米福ニめし食ニ行き佐野の処へ車を迎ニやり佐野が来た 又吉岡が尋て来た 後溜池で二十一をやる 途中で合田ニ出逢ひ奴も一緒ニ為つて面白く二十一が出来た 佐野と二人が居残りと為つて一時半過ニ内へ帰る 風ハ止まず

1897(明治30) 年3月11日

 三月十一日 木 起て寝部屋を出ると久保田米斎と和田が来て居た 又加藤氏が暇乞かたがた来られた 十二時少し前ニ関如来が来た こんな事でとうとう朝の仕事ハ出来ず 午後少し計裸などかいた 四時頃ニ久米 小代 合田 松波等が来 又藤島も来た 今夜ハ安藤と出逢ふ約束だつたが此の集会ではづす事叶ハず 電信で断をやる 藤島ハ帰りあとの者等と赤阪のそばやニ行き九時頃まで話した 此の頃ハ余程暖ニ為つて居たが今夜などハ又冬ニ立ち帰つた様な寒さだ 内へ帰つて見たら清が国から帰つて居た 国の左右や又伊木氏の変死様子など委しく聞た

1897(明治30) 年3月12日

 三月十二日 金 学校に出 昼めしハ藤島と精養軒でやる 琳琅閣で礼記を買ひ内へ帰る 夜食後杉と溜池ニ出かけ菊地を引き出し二十一などして十二時過までひつかゝつた 今日ハ安藤ハ横須賀へ行くとて手紙をよこした

1897(明治30) 年3月13日

 三月十三日 土 モデルは来たが病気で一両日休むと云事で帰る 昼後ニ平岡八郎氏が見へた 大橋乙羽氏も来 世界の日本の中島元次郎氏も来た 四時過ニ安藤が来 間もなく佐野が来 又大熊が来た 安 佐の二人と伊豆屋でめし めし後安と浅草へ走りしばらく遊で又走り帰る 十一時ニ内へ着く 今夜向ニ居る内ハ頭が非常ニいたく閉口した 今夜ハ又一種不思議な者を見た 小説の種ニハ必ず妙也

1897(明治30) 年3月14日

 三月十四日 日 朝父上がお出ニ為つて昼めしは御一緒にたべた 午後久米 佐野 小代 菊地 合田 杉等が集まつた オレハ佐野の為にやつて居る画ニ一寸手を附け皆と一緒ニめし食ニ出る 場所ハ米福 後ち山下庵で二十一をやる 松波ハ先ニ来て一緒ニ為る

1897(明治30) 年3月15日

 三月十五日 月 雨 今日今度の裸画の木炭を仕舞つた 昼後に佐野が来 彫刻の下画を委員に持つて行て見せて来た 晩めしハ母上と清と三人 めし後三人で話して居る処ニ杉が来 九時過ニ合田が来 三人で十二時まで二十一をやつた

1897(明治30) 年3月16日

 三月十六日 火 霧雨 朝学校に出 昼めしハ白瀧 小林 北の三人と釜と云牛屋で食た 内へ帰る前ニ髪をつんだ 内へ帰つたら父上がお出ニ為つて居た 又新二郎も来て居た 夜食ハ伊藤も来て居て母上と清と四人で食た 杉が来 しばらくして菊地が来 合田が来 安藤が来た 今夜も二十一をやつた 皆の帰るのを送つて十時半頃から虎の門まで散歩して来た 今夜月ハよく暖でいゝ 今日合田が内の長屋へ引越した

1897(明治30) 年3月17日

 三月十七日 水 終日モデル 植木屋を相手にした 夕方ニ杉が来夜食後亦来た 九時半頃ニ合田も来 十二時頃まで二人とも話して居た 今日第二の裸の油画に着手した 又モデルニ金を十円かした 皆帰つてから鹿児島へやる手紙をかく

1897(明治30) 年3月18日

 三月十八日 木 天気よし 為ニ余程春めいて来た 丹羽 林が来 伊藤と三人で一緒に昼めしを食た 一時頃から合田と二人で錦輝館で有る近頃大評判の Vitascope とか云写し画を見に行た 真に評判丈の面白いものだつた 四時に仕舞に為つて内へ帰る 夜食後杉 菊地 松波 佐野等が集り又例の通りかるた取をした 九時頃から出かけて豊陵ニ行き又二十一をやつた 仕舞ニ為た時ニ何某と云松波の知人が這入て来て同時ニ散会した 結末が甚だ不愉快ニ出来上つた

1897(明治30) 年3月19日

 三月十九日 金 雨 学校ニ出 昼めしハ藤島と精養軒 二時頃ニ安藤の内へ行く 伊藤が居合せた 夕方内へ帰つた 松方正作君が見へて議会の要事で父上へ伝言を頼まれた 即ちめし後ニ笄ニ行き其意を申上て九時過ニ帰る それから木箱の片附方などして一時頃ニ床ニ入る

1897(明治30) 年3月20日

 三月二十日 土 モデルが朝から来て居たが勉強ハ午後のみ 朝ハ松方氏へ昨日の返事を云ニ行た 四時頃からぼつぼつ人が集つた 久米 小代 佐野 菊地 杉 此の人数で金子でめし 金子から出て合田ニ出逢ひ七人ニ為り角の茶屋ニ道鏡の先導で上つた 十二時前解散

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