本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1886(明治19) 年10月22日

 十月二十二日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)またわたくしがかいたゑをなにかおくつてやれとゆつておやりなさいましたけれどもいまかくゑはたゞひとのかたちやまたつらなどをたゞやきずみでかくのですからおくつてあげそうなものはなんにもありません けれどもいづれそのうちになにかしらんかいておくりますからまつていてくださいまし くろだきよたかさんにたのんでおくつてくださいましたすみはたしかにとゞきました(中略) すぐにそのすみをうちのおやぢにやりましたらおゝよろこびでした(後略) 母上様  新太より

1886(明治19) 年11月5日

 十一月五日附 パリ発信 父宛 封書 寒気日ニ増候処御尊公様 母上様御始御一同御揃益御安康奉大賀候 次ニ私至而元気勉学致居候間御休神可被下候 去三日より大学校通学モ相始メ申候ニ付近頃ハ甚ダいそがしき事ニ御座候 画モ不惰勉強致居候 学力ナキ時ハ画道ニノミ達し候ても只画工タルニ不過と存候ニ付先ツ当分ハ学問ヲ為シ傍画ヲ学ヒ一人前ノ人間ト為りたる後専ラ画ヲ学ヒ而望ヲ達セント存候 月日ヲ重ぬるニしたがひ志のみ次第ニ大きく相成候故定而御心配被遊候半と奉存候 乍併能能相考申候ニ貧富ハ只一世 死後ノ名ニ目ヲ附ルコソ男子なりと奉存候 御送り被下候錦切画学教師ニ贈り候処大歓にて御尊公様へ宜敷御礼申上呉れとの事に御座候 塾長ミルマンへも古墨を与へ候処之レモ同しく大よろこひ致し候 今度大学ノ通学を相始メ候ニ付テハ入費モ相かさみ候間去月限リニテミルマン塾ヲ去リ只今ハドランブル町ト云処へ下宿致し居候 大学校へ行ニハ二十分計ヲ要スル処ニ御座候 画学ノ塾ハ二三分位ノ処ニ御座候間至而便利ニ御座候 昨日法律ノ別課教師ヲ一週三回ニテ一ヶ月八十仏ト約束相定メ即チ今日より相始メ申候 先ハ用事迄 草々 頓首 父上様  清輝

1886(明治19) 年11月19日

 十一月十九日附 パリ発信 父宛 封書 十月七日附之尊書本日相達し難有拝見仕候処御尊公様御始メ皆々様御揃益御安康奉賀候 次ニ私事至而壮健勉学致し居候間御休神可被下候 先便より一寸申上候通り去る三日より大学校の講義相始り候故近頃は甚ダいそがしく且短日ノ折柄画ヲ学ブ次官至而少く閉口罷在候 画ニ志シ法律ヲ学ブトハ甚ダ以テ迂闊ナル仕方ニ御座候得共学力なき時ハ画学ニ達し候とも先ツ悪口すれば画カキノ職人たるに過ぎず 之レ通常画家ガ人ニ軽ゼラルヽ所以と奉存候 故ニ此ノ三ヶ年間ハ法律ヲ学ビ一通リノ人間と相成候て而後力ヲ画ニ尽さんと存候 尤モ画ハ他ノ学問トハ異ヒ何年すれバ卒業するなどゝ云事ハ無之候間即チ終身之業ニ御座候 右之次第ニ付当分画学ハ第二段ニ置キ法律勉強致し居候 御休神可被下候 法律別課教師を一週四回一ヶ月分八十仏我貨幣ニテ二十円計ニテ相雇ひ申候 法律学校ノ生徒たるニは当地ノ中学卒業免状ヲ要する事ニ御座候 併シ外国人ハ此ノ仏国ノ中学ヲ卒業セズトモ其国ニテ相当ノ教育を受けたること公使館より証明する時ハ中学卒業相当ノ免状ヲ得ル事也 而其免状ヲ得るニハ金百二十仏余ヲ要する事ニ御座候 又学校ニテ試験有ル度毎には必ズ百仏とか二百仏トカヲ出さねバならぬ事故誠ニ以て閉口之至ニ御座候 父上様  清輝拝

1886(明治19) 年12月3日

 十二月三日附 パリ発信 父宛 封書 (前略)私事至而壮健毎日法律校へも通学勉強致居候間御休神可被下候(中略) 本月ハ法律校入校免状受取ニ付キ通常学資外ニ百二十仏ヲ要シ候故百仏丈ハ丈ハ来月分を使ヒ込まざるを得ざる都合ニ相成申候 左様御承知可被下候 当地ニ日本ノ庶民夜学校の如き夜学校有之種々ノ学を無月謝ニテ教授致し候 其中画学ノ課も有之候 私ハ昼間ハ充分ニ時間無御座候故当分其夜学校ニ行き勉強致居候 木土の二日をのけて其外ノ日ハ八時より十時迄稽古する事ニ御座候 余附後便 草々 頓首

1886(明治19) 年12月17日

 十二月十七日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)ゑのせんせいがたいへんていねいにしてくれますからまことにしあわせなことです たびたびふぢさんといふゑかきさんとふたりごぜんのごちそうなんどになります このごろはひるまはひまがありませんからよるゑのけいこをいたします まことにおもしろいことです(後略) 母上様  しんたろより

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