1904(明治37) 年12月11日 Sunday


十二月十一日 晴

昨夜の雨はすつかり上つてしまつて今朝は誠に気持ちのいゝ天気になつたので此儘で過すのは残念であるから竹沢を引留め佐野の処を尋ねたるに役所で不在。そこで小代の方に廻つた。丁度顔を洗つて居るところであつた。夫で三人一緒になりブラブラ芝の方に歩き郵電学校で佐野に電話をかけ今福で出縫ふ事になる。三田に行きながら小父さんの機械屋に一寸立寄り煙草機械の現状を見る。今福は此間の怪我以来始めてゞある。怪我の現場を調べたが別に角張つたものもないのにあんなに切れるとは妙である。間もなく佐野も来り食事中正月旅行の相談中々纏りにくい。先づ伊豆の伊東あたりという見当がついたが扨日取りに至つて甘く一致しない、厄介な話。今福を出たのは二時過で是からどこという当てもなく品川行の電車に乗る。余り遠方に行つても同じ事であるとの説で御殿山の方から田畝に下りる。竹沢と小代との間に山鴫談は盛んであつた。川端に製作場のある辺を廻り踏み切を踰へて妙華園に向つた。桐ケ谷通りから左に切れて漸く探し当つた。入り口の部屋に少々花物がある丈だ。此側に鶴が一とつがひ畜つてある。此間猿橋で鶴の尻にある黒いものは尾ではないという佐野の説を実際に見る事が出来た。成る程あれは羽の元について居る毛で尻尾は白くなつて居る。一銭づゝで鶴の餌をかつて入れてやると長い嘴で鰌を探つて取る。中々面白い。此時に羽を広げたので全くそれに違ひない事が分つた。そふすると飛んでる鶴に黒い尾があつては可笑しい訳である。是から裏の方には温室があつて蓮やスミレが出来て居る。高台のキヨスクで休息して園を出る。此花屋敷は河瀬秀治氏の住居である事跡で知つた。それから附近の田舎道をブラついた。大根や漬け菜を盛んに洗つて居る。田野の風情は一寸気持がよかつた。三ツ井の地面だという広い囲いの周囲を通り全く方角を失つた姿になり、もう段々薄暗くなるので道を聞いて鞠子の街道に出で桐ケ谷の辻から品川の方に引返す。晩飯には葱まという注文であつたが以前の釜飯の事を思ひ出しウツカリはいつた処牡蠣飯は出来るが至つて淋しい様子、やり損なつたと思つたが仕方がない。形斗りの鮪鍋に酢がきで一杯やり、釜飯も評判が悪く勘定は四十六銭五厘の割り前も不感服蓋し昼のロースが全く消化し終らなかつたのは不平の一原因に相違ないのだ。電車を札の辻で下り人力で帰つたのは八時過、夫から又十一時頃まで話した。

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例)「1904/12/11 久米桂一郎日記データベース」(東京文化財研究所) https://www.tobunken.go.jp/materials/kume_diary/872331.html(閲覧日 2024-05-05)