1905(明治38) 年4月1日 朝九時よりこまの請求で三越呉服店の売出しに出掛る。今日は雨天なる故混雑はさほどではない。フラネル地二反を求める。それから白木屋の方にもはいつたが品物は余程少なく且少し高いやうに思はれた。人出はたんとなかつた。電車で大門まで戻り雨中を歩して赤羽を越へてんぷら屋で昼飯をやる。到底橋善のやうな訳には行かぬ。一時に帰宅す。午後試験調へ。 続きを読む »
1905(明治38) 年4月2日 今日は日曜明日は祭日で全体より余程賑はふ筈であるが天気がわるくて丸潰れである。今朝試験調べでくらす。十一時過に菊地が来て後に岩村の処で逢ふ約束をする。甚たお粗末な食事をして後岩の家を尋ねたるが小代の内にいつたというので三河台に出掛け四人集り久し振りでの懐旧談をした。四時に一同出掛け高樹町に立寄り再び散歩。あの辺で菊地の新築の貸家などを見て赤十字社病院の盛んな新建築に沿ひて笄町を廻り木村町を通り仙台坂下から善福寺境内を過ぎて目的の更科にはいる。日曜の事であるから奥坐敷はお客が一杯ではいれず仕方がなく表の店の方に上る。こつちでは混雑はないが電話のチリンチリンは如何にもやかましい。内の者はそんな事は一向平気で立働いて居るのは感心なもんだ。盛籠二つづつと天ぷら一つたいらげた。岩村が例の家中の評判は穿つたもんだ。小父さんは前歯が痛むといつてふさいで居たのは遺憾なり。近来裏座敷を拡張してからさし身や茶碗蒸の料理なんかこしらへるやうになつたのは不必要な事で更科も堕落したという評判一決した。彼是一時間半も話して長坂上で分袂七時に帰宅した。 続きを読む »
1905(明治38) 年4月3日 大祭で実業団体の大祝捷会を催す筈であつたが此雨ではお流れだろう。高商のボート会も昨日の日延べが又雨でどうなつたか到底だめだろう。美術学校の恤兵展覧会も同様不景気に相違ない。予は終日家居、光風原稿に著手す。夜雨中なれどこまに促されて麻布亭に源氏節を見に行く。拾銭で芝居の直似が見られるので中々大入りである。芝居が始まるや否や忽ち殺人を演じたには閉口。所謂武士道の教育はこんな事で間断なく施されて居るのだと思つた。事柄は越前のお家騒動で形の如き悪者、愛妾、忠臣の腹切はりつけの場までもある。西洋人がいくら研究しても分らない軍人教育の真相は畢竟こんなもんである。役者にはたつた一人見られるのがあつた。此女役者の手踊りなんか面白い所があるに相違ない。源氏節の本人岡本美登松なるものゝ本芸は充分に見えないが唯地語りを一人で引受けるまでの事である。はねは十時過ぎになる。 続きを読む »
1905(明治38) 年4月4日 昼前は瑞西旅行記を認める。午後は少し明るくなつたのでこまを携へて白木屋に出掛る。客は此間より多いやうである。蒲団の裏になる色物を求めた。帰りは神明の太々餅に寄り四時帰宅。夜松方正作より電話が掛つて八時頃歩んで出掛ける。例之通浮世画の買物の評判にて十一時まで話した。 続きを読む »
1905(明治38) 年4月5日 午前山内より街鉄電車に乗り日本橋まで行く途中、日比谷公園及び三菱の明地にては一昨日より延期された実業団の祝捷行列大賑ひであつた。茅場町にて下り、丁酉支店に洲戸氏に面談。九鉄株売払ひの事を頼む。月越しに七円台になり平和見越しもはかばかしからぬ故一ト先づ手放する事に決したのである。早速電話で午前の相場を問合せてくれたが意外にも一円上りで八円五十銭になつたという事である。依て其指価を以て六月期にて売払つてもらう約束をした。若し是が昨日話したのであつたならば見すみす拾円の損になるところであつた。併し妙なもんでこうなつて見るとなんだかまだ上りそうな気のするもんで今日出来なければいゝと思ふ位であつた。兎に角スペキュラッションを実地にやつて見たのは是れが始めてゞあるがどんな結果になるにや、一寸面白いもんだが実際有害な事には相違ない。龍ノ口まで歩き途中斎藤知三氏に出逢つた。電車にて山内まで来て十一時半に帰宅。午食後直様目黒に自転車を取りに行く。長坂下より十銭で三光坂の下まで人力に乗り田圃路を歩いて麦酒会社の裏に出る。花はないが春野の気持中々いゝもんである。目黒では父上は早稲田のお留守。すみは二年級の教科書を買つてもらつて大喜び。此頃時々脳充血を起して卒倒する事があつて医師より気を詰める事は禁じられとのよねの話。何でも是はあんまりきびしく育てんとするため無心の小児の神経を衰弱せしめたる結果に相違ない。此孤児の如きは直に非家庭主義の犠牲となりたるものにて実にかわいそうであるが是も成り行で仕方がない。追つてそれを償ふ時期もあろうと思ふ。三時に帰宅。先日少々雨にぬれて銹が出たので手入れをする。此前に古物を買入れた風呂を始めてコウクスにてわかして見た。不経験のため大に手間取り漸く五時にはいつた。夜は熱気。 続きを読む »
1905(明治38) 年4月6日 今朝十時新予備科教員会議途中日本橋丁酉支店に立寄る。会議は重に時間割の事である。先づ都合よき時間が取れたので結構である。十二時過になり弁当、後恤兵展覧会をのぞき降り出して来たから大急ぎで帰宅した。 続きを読む »
1905(明治38) 年4月7日 午後長原来り表情論の繕ひをなし四時頃までかゝる。今朝丁酉に出掛る。九鉄は八・五五で買れたが昨日の後場は六〇を越えたので実にいやになる。素人の商売はこんなものなり。 続きを読む »
1905(明治38) 年4月9日 九時半頃小代来り岩村を誘ひ今福にて昼飯をなし殆ど半日暮してしまつた。全体明日の日曜にかけて一ト晩泊りにとこかへ出掛けよふとの話であつたがとうと纏まらずにしまつた。それから第二次回は小代の処に集り晩飯には菊地も加り大和田に会食。高島を呼ひにやり再ひ三河台に集り大人の昔囃しで大に賑はひ十二時過になる。今夜バルチック艦隊新嘉坡出現の号外出づ。実に意外千万なる出来事なり、市場は大に反動を見る。 続きを読む »
1905(明治38) 年4月10日 今日は余りに気持がいゝから岩村の処に出掛けて散歩を進めて居ると丁度小代も来り菊地を音づれ、四人で出掛る。大人も同行の筈なりしが新聞社の都合で来られず残念であつた。青山学院から渋谷停車場を経て宮益の通りで蕎麦屋に入る。こちらは全くカルチェーミリテールとなつて繁昌して居る。此蕎麦屋なども兵隊あて込の奇妙な給仕女なんか居る。これからどこという目的もなく代々木の方向に進んで行く。青岡園の牛乳所で乳を飲む。此家の主婦青んぞうの若い女で色々もてなした。横手の隣に新築中の小別荘が見へたがあれは鍋島さんの御家老の家だといつた。こゝを出で土手についた田圃路を行くに風なく日が暖かて何ともいはれぬ気持がする。菊地の旦那久米氏の煙草製造所の脇を廻つて同氏の家敷の前を通り菊地の案内で庭を見る。芝山で足を出して休息した。帰り掛け三太夫の福島というが出て来てお茶を呑まされた。やがて礼をいうて出ると裏口の処で犬が三疋待伏せをして吠へかゝつたのはおかしかつた。甲州街道に出で銀世界の前で団子を喰つてこゝから堀之内の方に向つた。晩飯はしがらきのノツペーと極つたからである。堀之内へは一里余りであるがまだ日が大分高いやうだからそろそろ歩く、菊地は余程疲労の体で屡々休む。モー八町ばかりしかないという処で左側の漬物屋へ一同お土産の折を求めそれを提けてしからきへはいる。先以ノツペーを注文する。大した結構なものではない。ぬたに差し身、玉子焼なんかで一人前三十何銭は高くない。中野で七時過の電車に乗り新宿で街鉄の車に移り三宅坂にて青山線に乗替へ無事に帰宅。久し振りでいゝ散歩をやつた。 続きを読む »
1905(明治38) 年4月14日 午前はかき物でくらす。午後思ひ切つて兜町に出掛る。是は波児的艦隊出現以来九鉄は段々下押して五十八円台となつたから此際買戻した方が得策と考へたからである。行きがけに宗十郎町の床屋で頭を刈らせるため大分待たされる。通りで電車に乗込み日本橋にて下り丁酉に立寄つたが洲戸は不在である。夫からあちこち探して漸く中島の店が見つかり八・三〇位なら買ひ戻して差支へない事を頼む。果して出来るか分らぬが出来なければ元々の事である。三時過になり濠端線で高商に赴く。今日は臨時休業なれど自転車を取りに行つた訳である。四時帰宅。夜藤島の友人の猿渡という人が尋ねて来て仏語の口を依頼した。 続きを読む »
1905(明治38) 年4月15日 午前は一ツ橋十時までやる。今朝美術学校で新入生に校長の訓示があるから出て来いという事であつたが行かなかつた。午後は彬にいちを附けて上野に花見にやる、天気になつて大喜びと思ふ。小林萬吾幕の損料内金五十円を持参した。五時過に小代来り佐野を待合す。間もなく佐野も来る。何れかに飯に行く処なれど油のために見合せ鳴戸鮨に丼を注文した。小泉は京阪地旅行で居らぬ、矢張物足らぬ様である。飯の時にお神酒が出て来たのは閉口であつた。八時二人を置去りにして溜池まで自転車を飛ばす。光風原稿締切日であるから編輯会が開かれている。坂井の他に黒田和田も来た。十時まて居て御免を蒙り帰宅後又一ト廻りやつた。十一時散会。 続きを読む »
1905(明治38) 年4月16日 九時から自転車で目黒に行く。小供等は花見に出掛る処であつた。マヽンの語は少々耳障りであつたが是も一種の運命と思はなければ仕方がない。父上は昼後から湯島に演説に出掛けるとの事であつた。九鉄株の話で得意の実験談が始まる。十一時に退出帰りに十番で豚肉を買入れて帰宅す。午後は月報原稿の執筆で丸潰れお負けに山口亮一が来て暫らく暇を取られた。こまは今日花見をするつもりで菊坂の山口の方に朝から出掛けてすかを喰ひ大不平で昼後三時頃に帰つて来た。 続きを読む »
1905(明治38) 年4月17日 朝八時始りの処大降りにて人力車をおごつた。十二時まで課業をやり電車で帰つた。バルチック艦隊が新嘉坡の沖合に見へた事の報があつて以来十日間になるが其後は十一日に柴棍の東北に見えたというのみで行方不明であつたが今日の号外には仏領安南のカムラン湾某地を根拠地として碇泊すという大本営の公報が出たので大概様子は分つた。 続きを読む »
1905(明治38) 年4月18日 昨日の天気に引換へ今日はすつかり天気になつた。併し北風にて中々寒い。今日は火曜で朝九時から一ツ橋の方が始まる。十二時までブツ通しにやつた。昼休みに校長が教員室に出て来て春季修学旅行の相談がある。来廿七日頃一泊で箱根行と極つた。要するに学課を休む口実となつて生徒と教員との両徳である。昼後上野廻り、北風が強くて難儀である。上野の花は昨日の風雨で全く見処はなくなつたれど天気で随分賑やかである。考古学は四時十分前まで講じて五時前に帰宅す。昨今露艦に関する新報なく市場は大なる変動なし。 続きを読む »
1905(明治38) 年4月20日 一ツ橋及上野仏語第二回講義午後は二時より四時まで帰り向ひ風で沙埃り大困難。夜こまを連れて森元町の高砂亭で源氏節を聞く。イヤ見た例の乞児芝居の真似事で斬り合殺人で持切り、戦時のスペクタークルとはいへ余りといへば幼稚至極である。十時半過にはね雨に逢ふ。 続きを読む »