本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1901(明治34) 年5月3日

 五月三日 金 晴 (欧洲出張日記) 午前三時出帆 正午二十九度 少しく風あり涼し 終日安南の陸を左方に見る 夜月よし 久米と甲板で二時近くまで話す

1901(明治34) 年5月4日

 五月四日 土 曇 (欧洲出張日記) 風なくむしあつき事甚し 午前二十度に上る 午後少し涼しく為つて二十九度となる 今日は海南島の沖を通る 島は見へず 午後五時頃有名なる暗礁を遠くに見る 夜此の暗礁に就ての話を林氏よりきく

1901(明治34) 年5月5日

 五月五日 日 曇 午後雨 香港 (欧洲出張日記) 今日は風あり 昨日よりしのぎやすし 昼過に為つて尤も涼し 寒暖計二十七度也 香港に近寄り雨ふる 四時半着 六時上陸 林 鈴 久 佐と野村と云家に行 夜日本村を見 野村へ一泊

1901(明治34) 年5月6日

 五月六日 月 曇 (欧洲出張日記) 朝支那町より欧洲町を見物 恵良写真館にて紀念の為佐 久 鈴と四人にて写真を写す 林氏にハ昨夜日本村にて別れたり 公園を通り抜け野村方へ帰り食事 一時半頃船へ帰る 二時過出帆 夜同船の日本へ行く仏人と林と麦酒を飲で話す 林氏英米両国人の性質并に生活の事を語る

1901(明治34) 年5月7日

 五月七日 火 雨 午後三時頃より霽る (欧洲出張日記) 海は鏡の面の如く平也 雨の為か大に涼しく二十四度位となる 午後三時頃台湾海峽の真中程に到る 夜九時頃に月出づ 十一時過より林氏の室にてウヰスキの振舞にあつかる 久 佐は早くねる

1901(明治34) 年5月8日

 五月八日 水 霧と雨 (欧洲出張日記) 昨夜より今日へかけての気候の変化は非常にて今日正午十八度となる 外套を出して被る 午後少しく波立つ 四時十五分頃海の色一変し楊子江の水となる 此頃浪尤高く気分悪し 夜食後船を止む 十五度でさむし

1901(明治34) 年5月9日

 五月九日 木 霧雨 (欧洲出張日記) 寒暖計十四度に下る 霧が強く潮時が悪いので此の岩礁の多き場所で船を動す事の出来ぬとかで昨夜は其儘で今朝まで居すわり漸く十一時に進行を始む 此処から呉淞までハ七十マイル位有り 午後四時頃呉淞に着 検疫彼是にて暇を取り食後ハシケに乗り九時上陸 林 久 鈴 佐と五人にて直に東和洋行に行 東和の主人吉島の案内にて十一時頃より日本料理屋六三亭にて飲む 十二時に切上げ林氏を残して帰る 間もなく林氏も帰り来る

1901(明治34) 年5月10日

 五月十日 金 曇 夕方より雨 (欧洲出張日記) 昨夜は林氏と同室に寝る 久 鈴 佐の三人は廊下を隔てた向ふの部屋也 八時頃起皆で朝めしを食ひ佐々木と云人を案内者として城内の哈少夫を訪ふ 林氏の知己の道具屋也 是より哈氏の案内で城内を見物し又同氏ノ御馳走で順源楼と云支那料理屋に上る 後又哈氏馬車を雇ひ二時半頃より愚園 張園等を見る MMの小蒸気は五時に出帆なりと聞たる時ハ巳に五時五分前にて遂ニ乗り後れ別に汽船を雇ひ本船に帰る 時に九時也 十一時頃より林君の部屋に行て一時頃まで話した 十五分程立つて出帆

1901(明治34) 年5月11日

 五月十一日 土 晴 (欧洲出張日記) 朝九時頃に目がさめたらもう大洋に出て居た 風も浪もなくいゝ天気だが寒い 寒暖計十五度也 明部屋が出来たと云ので荷物は元の処に残して置て引越す 序に少しカバンの中を片着け被物を被更たり

1901(明治34) 年8月7日

 八月七日 (箱根避暑旅行日記) 朝の内少しく雨ふり午後止む 三時二十分新橋発 同行ハ母上 種 文と拙者の四人也 母上今年六十五歳 種ハ二十九歳 文姓ハ小泉年十六 拙者三十六歳なり 国府津に着し停車場前の蔦屋にて急ぎ茶漬を食ひ電気鉄道に乗る 此処の電車に乗るハ今日が始めてなり 車新らしく一寸奇麗にて乗具合悪からず 始め中等に乗りたれども人多く入り来りし故上等ニ乗り替えたり 一時間にて湯本ニ達す 時ニ七時半頃也 例の万翠楼福住の三階に泊る 此家の風呂はいつもながら清潔にして心地よし 広き浴室の方の中央に板塀様のものを突き出し湯壺を真中より二つに分けて浴室を狭ばめたるハ営業上何か訳のある事ならんが窮屈に為りたるハ遺憾なり

1901(明治34) 年8月8日

 八月八日 (箱根避暑旅行日記) 今日は曇天なり 底倉辺の宿屋の様子聞合せの為め此処ニ滞留せり 使の者帰り来て底倉の蔦屋といふ家ニ好き座敷有りし故約束し置たる旨を報ず 此の湯本ニハ度々来りしかども名所は一ケ所も見し事なけれバ今日此処に逗留したるを幸名所の見物を為す 昼飯前ニ玉簾乃滝を見る 此の滝ハ只の滝に非ず見世物なり 木戸銭十銭を憤発するに非ざれバ見る事不叶 書生など滝を見んとて木戸口迄来り御一人前金十銭也と聞て門前の橋の上に会議を開き居るを見たり 此の滝は少しく斜面に為りたる崖を幾筋にもなりて流れ落る水にして壮快なるものニハ非ず 形面白く雅なるものなり 川と為りて流るゝ処などに一二ケ処に画にも為る可き場処はあれど絵の事など好まぬ人ニは十銭にて見る可きものハ滝の外にハ川の中の緋鯉位のものか 昼後にハ今朝底倉へ使ニ行たる男を案内者として早雲寺と正眼寺に行く 早雲寺は可也の被れ寺也 昔をしのぶにハ此の姿却て妙也 此の寺にハ宝物の書画多し 早雲寺の正門左甚五郎の作といふ肩書附の門 然るニ西洋形の瓦を平気で載て居る 其正門を出て昔の本街道を少しく登れバ両側に人家あり一村を為す 婆々連五六人集まつて御詠歌の稽古を為すなど随分古風にして呑気なり 村外れの左側に小高き処に放光堂といふ額を掛けたる一つの小さな寺あり 小屋同然のもの也 是れハ正眼寺とて早雲寺の末寺にして維新前は可也のものなりし 又此の近所に一つの地蔵堂有つて曽我兄弟の木像をも安置し有りしが維新の際幕臣伊庭八郎と云者百人許引卒して此処を守りしに遂ニ敗走せり 其時村も寺も皆焼く 曾我兄弟の像ハ誰やらん漸く堂より引出し全きを得たるハ幸なり 今の正眼寺に在るものハ則是也 此の曾我兄弟の像といふハ二体共地蔵の姿に彫刻せる等見立像にして一見肖像とハ思ハれず 能く見れバ面部は二体共異なれり 身の長も亦同じからず 顔附の点より拙者の感覚を云へバ時致と記したる方却て祐成らしく祐成の方は時致然たり

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