本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1901(明治34) 年12月30日

 十二月三十日 晴 (伊豆旅行記) 午後三時二十五分を期して新橋停車場ニ聚る 久米桂 佐野昭 磯谷治平 長尾建吉及び拙者の五人 治平は建吉の兄にて五十五の親爺なれども矢張呑気至極の人物なり 横浜にて乗換の時中々な人にて下等に入る事叶ハず 助役及車掌の取計らひにて大船まで中等に乗るの栄を得 一同「出がいゝナ」と大に喜ぶ 大船に到りし時ハ全く夜に入りたり 下等室には湯たんぽも何もなく寒し 三島まで行く筈のところ議が更つて国府津に下車す 六時頃也 蔦屋の別荘ニ入る 不景気の年の暮故避寒のお客少なしと見て六号と云ふ広々とした離家を吾々五人にて占領す 潮風呂に入りあたゝまりたる後寝床に入り久米 佐野等と十一時頃まで寝話をした

1901(明治34) 年12月31日

 十二月三十一日 晴 (伊豆旅行記) 八時に起る 昨夜は大分寒いやうで有つたが今朝起て日当に出て見ると中々いゝ心地だ どうしても東京よりハ暖かいに違ない 宿屋にてハ給仕女のよしあしは居心地の上に大に関係する次第であるが昨夜より吾々の世話をした秋と云女はこう云ふ場処柄の者に似合ハずうぶなところが有つて気持悪からず 下男もあつさりして居てよし 九時五十四分発の気車に乗り三島で乗り換て大仁にて下車 時ニ一時也 大仁より修善寺まで一里八町の道はがたくり馬車にて走る 二時浅羽といふ宿屋に着き入口の向ツて左手の古き二階に陣取る 三時に漸く昼飯にあり付け 気分悪き程食ひ込み散歩に出掛く 頼家の墓より宿屋の建ち並びたる辺を過ぎ修善寺へ廻ハる 十二歳の時に母に連れられて始めてやつて来て三十六歳の今日再び此処を視ることゝ為る 此の二十余年間に拙者の一生に取て随分貴重な年月は過ぎ去つて仕舞つたが修善寺は見違へる程にハ変つて居ない 勿論宿屋などが大に立派に為つて居るにハ違ないけれども矢張大仁までの道路にハ石ころ多く桂川の中に在る独鈷の湯の鳥籠然たるくづれかゝつた垣も記憶に存したる儘也 湯に入り八時頃に飯を食ふ 宿屋より晦日蕎麦の馳走あり 階下に厄払の声聞ゆ 治平老人一杯機嫌で維新前の東海道の道中の有様などを語り間も無く寝て仕舞ふ 久 佐 長の三人はカルタを始めて忽ち夢中と為る 拙者は仕方が無いから寝床の中に横倒しに為つて居て火鉢の火に炭を継ぎ高く積だり潰したりして居る 後遂に餅焼を仰付けられたり 長的注文の酒も来りカルタの止みたるハ正十二時也 まあまあ目出度き年の暮と云ふ可し 十二時が過て来年となり餅を食ひ又キンピラごぼうと長的持参の鰻の肝の佃煮とにて酒を飲む 誠に心地よき年の始めだ 午前一時に眠る

1902(明治35) 年1月1日

 一月一日 晴 (伊豆旅行記) 羽根つきの音を聞きながらうとうとして漸く九時頃に起き湯に入り宿屋よりの馳走の雑煮を二杯平げ範頼の墓を観に行き川に沿ふて下り修善寺ホテル前の橋を渡り一と廻りして帰る 今日は少し風が有るが東京などは随分寒いだらうと思ふ 一時半頃に牛鍋を命じて食ふ 食後一同打倒れて眠る 覚めて湯に入る 間も無く夜と為る 治平老人の台湾 琉球 奥州地方旅行中の見聞談などを面白く聴く 夜食にハ猪肉を取り寄せて食ふ 謹賀新年を二十余枚書き湯に入り寝る 十一時半也

1902(明治35) 年1月2日

 一月二日 晴 (伊豆旅行記) 九時に起て直に湯に入る 温泉場の愉快は朝の面洗を別にやらず寝ぼけ面の儘にて湯に入ることなり 夜寝る前に一と風呂やつて来るのも決して悪くない 今朝も御馳走の雑煮二杯で腹を太くした 今日帰途に就くことゝ極つて勘定を云ひ付く 三十一日の午後より今日迄まる二日二た晩の費用は総計十二円五十二銭 席料は八畳二た間にて一円 湯浅五人分四十四銭 夜具五人分八十銭なり 別に茶代三円下女に一円を与へたり 序に途中の汽車馬車等の賃銭を記せバ東京より三島までの汽車一円十六銭 三島より大仁まで二十銭 大仁より修善寺までの馬車は一人前七銭なれども六人乗の馬車を五人にて借り切りたることゆへ割前少しく上りたり 修善寺にハ牛乳も牛肉も亦シガールも売つて居るから不便は無い 又箱根其他の流行場のやうに悪ずれに為つて居ないから席料其他も程のいゝ所にて吾々の程度に適当なり 十二時前にがたくりに乗つて立つ 帰りハ下り路だから十二時半頃に大仁の停車場に着く 大仁と修善寺間に危嶮な場所が二ケ処有る 一は横瀬の森の横手の坂路と一ハ水昌山の下の橋だ 此の二ケ処でハ度々馬車を覆すと云ふ事だ 橋の方は最もあぶない 今は橋の欄干が四五間も落て仕舞つて居る 之れも馬車を打つけて破潰したのだそうだ 用心深い人は徒歩するに如かずだ 小供の時に修善寺から大仁に饅頭を買に来た事が有つたが其頃にハ此の水昌山下に橋は無く渡し舟であつた 不思議な岩山が有つて其下を深い川が静に流れて居るところが有つたと思つて居たのは即ち此の水昌山に狩野川だ 城山などハ少しも覚えて居なかつた 汽車の出るまでに半時間あるから停車場前の中清といふ茶見世に立寄り茶漬を食ふ 十六銭なり 酒も命じて長尾兄弟と飲む 十八銭なり 茶代五銭置く 一時十分頃に発車す 二時頃に三島に着き長尾兄弟と別れて久 佐と三人連に為る 磯谷 長尾は興津へ向ふ 一と寝入りして目を覚ました時は山北にて佐野が吾々の為めに鮎ずしを買つて居るところであつた この鮎ずし余り美味くなかつた 国府津に来て又弁当を一つ食ふ 馬入川の辺より暗くなる 七時新橋に着く 久米は品川にて下車し佐野にハ新橋にて別れたり

1902(明治35) 年2月22日

 二月二十二日 土 自転車旅行の催有り 午後一時を期し品川停車場前の茶見世に会す 来る者久米 佐野 菊地 小代 中丸 小林 合田及拙者の八人也 旧東海道筋を走り横浜を経杉田に到る 此処にて月の出を眺め山を越え金沢東屋ニ一泊

1902(明治35) 年2月23日

 二月二十三日 日 今日も天気よく至て暖か也 十一時頃金沢を発し十二時頃逗子に着 養神亭別荘に休み夫れより鎌倉ニ行き角正にて昼飯 三時前同処を立出つ 戸塚近くなり自転車破損 小 菊の二人と汽車にて帰る(五時二分発)

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