1905(明治38) 年5月7日

九時からこまと買物に出掛ける。今川橋の松屋の売出しでかすりを三反求め日本橋まで歩き白木屋にも立寄つた。帰りは天金で昼飯をやり一時頃帰宅する。

1905(明治38) 年5月8日

今朝日が出ないので七時過まで寝てしまひ加之ボツボツやつて居るから人力で出掛けた。高商にて十二時まで授業。電車にて帰る。午後入浴無事。

1905(明治38) 年5月9日

今日は九時出勤で少し明るくなつたから転がして行つた。一橋より上野廻り四時までブッ通しである。帰りは少し降つたが大して濡れずに内までこぎつけた。夕方小代の武チヤンが保証人の印を貰ひに来た。

1905(明治38) 年5月10日

高商本一の四五生徒の請求に依り専攻を休み一時間繰上けた。今から英語会の尻が動き出したのである。夫から上野に廻り五時床屋に立寄六時半に帰宅。前約にて坂井氏が来て待つて居た。雑誌の費用へ七五渡した。八時頃小泉翁来小父さんを迎ひにやりて始まる。間の日に襲来は少々迷惑な訳なり夫れがために少々へこんだ体である。

1905(明治38) 年5月11日

午前一ツ橋の課業は無事にやつた。上野から四時半に帰宅。九島つね夫人が妹を連れて来て居た。依て入浴後直様華族会館へ出掛けた。今夜は外国教師帰国に付送別会である。異人連の晩餐会は久し振りであつたが何だかうるさいものなり。婦人連があつたから猶更の事である。十時半に済んだ。出席者三十人計なり。

1905(明治38) 年5月13日

高商にては芝居の真似で今朝休みになる。昼飯後皆の者を日比谷公園つゝじ見にやつた。夕方小泉小代来る。小父は内から呼びに来て暫時居なくなつたが其跡に岩村がやつて来て三人で鳴戸鮨で夜食を済した後小代帰り来り間もなく佐野が来る。高島大人も来る。珍らしい大寄り合となつた。流石岩村の囃し好きも人勢には敵せずやかで傍観の姿となる。今夜は隆運忽ちに先夜の敗を回復せり。一時に解散。〔欄外に「目黒から新茶を持つて来る。」〕

1905(明治38) 年5月16日

朝九時より一ツ橋。昼より上野に電車にて廻る。考古学はパルテノンの説明をなす。帰途は電車。亀屋にてバタを買ふて五時過に帰宅。代議士補欠選挙で此間大隈伯其他よりの紹介により林謙三に投票す。多分当選するならん。夜不規則動詞を調べる。

1905(明治38) 年5月18日

余り降りがひどいから車で一ツ橋に出掛け十時授業を終り電車の乗るために神保町の方に行つた処一面川のやうになつて流れて居る。殊に街鉄線の大通りでは片側は全く浸水して下駄の歯などは及ばぬ位である。須田町で乗替へたが五軒町辺も大水である。上野に着いた時は大分小降になつて仕合せである。例の通り昼は学校の弁当で三時半過に仕舞つた。帰りには今朝の様子はどこへやらで暖かい日が当つて居た。五時に帰宅入浴す。

1905(明治38) 年5月20日

午前は一ツ橋十時まで。午后浴湯晩食後寄席にでも出掛けよふかと思ふ内に小泉大将出馬あり。少時世間話し仏公使館関係の日本人数人拘引されたのという秘密新報を聞いた。其内に小代が高島大人を同道し又佐野も見へる。今夜は森元の大不景気で大人は相変らすの当り年である。二時に散会した。

1905(明治38) 年5月21日

今日は天気なれば郊外散歩の約束であつたが雨では仕方がないが兎に角と思ひて十時に小父さん方に行つた。誰れも来て居ない。其内武ちやんが岩公を引張つて来、猶菊地と高島とを喚びに行こふとする処に二人はやつて来る。大に景気づき扨どこに行くやというので今日は最平凡でしかも余りやる機会のない浅草見物というを持出してそれに極つた。昼飯は菊地の発議で両国の坊主しやもとなり。五人連れ立ち青山御所前より築地両国行電車に乗込。一ト走りで元の広小路に着。新造の両国橋を渡り回向院前の古風な鳥屋にはいる。評判程の事はない。随分硬い肉である。小父さんは腹が悪いといつて喰はず、其内大人の園芸攫千談がある。一向陰気で振はない。鳥屋を出て再び橋を渡り一銭蒸気改め三銭蒸気に乗り吾妻橋まで行き観音に向ふ。奥山の所謂魔窟を一円して後、大人岩公と三人で花屋敷にはいつた。是れは始めて入て見たが中々よく出来て居て今時の小供には至極適当な見世物と思はれる。それから池の角の茶屋に休んで二人を待合せパノラマ館あたりまで廻り再び奥山の軒別ひやかす。小代が楊弓をやるというので江崎の裏の一寸奇麗な矢場にはいつた。外から見れば女が一人で居るやうだからはいつたら火鉢の側に蹲まつて居る一人の男が見へたのでぎよつとした。小父さんは仕方がなく上り込んで楊弓をやる。女はお茶を入れて一同に出す。厭味のないおとなしい風で大に気に入つた。火鉢の側の男は高島大人を見て居たが終に語をかけてあなたは水野さんではないかと尋ねられたので皆々大に驚きあつと叫んだ。よくよく聞けば二十年計前に行つた事のある石版屋の職工で今は一軒出しているとの事、此れは今日の一大奇談であつた。其内岡持を提げて誂への鮓を置いていつたから余り邪魔をするのも気の毒であるから二十銭の茶代を与へてこゝを出で直そばの汁粉屋にはいり甘いのを二杯づゝやりそれから馬道の方を廻り、大人焼印を買つた。吾妻橋より又一銭蒸汽で両国に行き浜町の吉田で天プラ蕎麦を一杯で晩飯代りとなし皆んなと別れて三田行電気に乗り溜池研究所に行つた。溜池にては今夜光風二号の打合せ会である。皆で十一人計会員が集まつた。帰りは佐野と一緒。

1905(明治38) 年5月23日

お勤め例の通り。上野の帰り向ひ風にて閉口した。狭い通を捜して人形町から江戸橋を渡り三十間堀の方を廻つて五時過に帰る。八時に溜池に出掛る。編輯委員会で二号の挿画を極める。十時半に散ず。

1905(明治38) 年5月24日

今日も上野廻り二時より解剖講義には直暗な夕立空でピカピカやり閉口した。併し帰る頃には雨は止んだ。合田と一緒に車を連ねて虎門外まで同行す。夜松方氏から例の電話で呼びに来り岩村を誘つて行つた。杉竹が来て居つた。今日は浮世絵の鑑定ではなく英仏画家の評判話しで十一時過まで居た。

1905(明治38) 年5月26日

午後一ツ橋へ電車で行つた。夕五時頃牙彫撰科生保坂鉄次郎が来てガイヤールに呼れて行くが連れがないから高商の教師の帰国するのに紹介を頼むとの事。気障なフロック爺に願うのはいやではあるが兎に角話して置く事を答へた。読売記者坂口二郎というのが新聞種の合力に来たが追払つた。露艦五隻上海に入り他の三隻は東北に向つたという号外が出た。是から何事か海上の活動が生ずることゝ思はれる。株は下落。

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