1904(明治37) 年7月26日

大石橋占領の号外出る。午後田中氏に暑中見舞桃一籠を持参す。病人赤十字病院の診断を請ふ事を勧める。又同家知人出征軍人の来信を示さる。日本砲ポコペン云々は耳新らしい。帰りにトリミヤ苗を貰つて来る。夜彬及こまと共に月明を機とし散歩、赤坂一ツ木縁日をひやかす。鹿の子百合の大株六十銭といふのを十五銭につけたが負けなかつた。朝顔の中鉢一つ七銭で買つて帰ると内では小代に高島佐野の三人待伏せをして居た。

1904(明治37) 年7月27日

午後溜池に合田を尋ね、それから一緒に上野に自転車で行く。岩村の俸給を受取るためなり。今日は文部省から検査に来て大混雑であつた。又会計で岡田の差押一件を聞込む。校長も来て居て少時話す。三時半頃より帰路に就く。途中霊南坂上で杉竹に出会ひ久し振で立話をした。近日尋ねよふと約した。今朝京都浅井へ石膏事件答へる。

1904(明治37) 年7月28日

夜食を五時前に仕舞つたから、父上の病気見舞に水蜜桃を携へて自転車で目黒に行く。最早神経痛は鎮静との事であつた。今日の朝日新聞銀行金融順調論を話したるに、早稲田伯は全く反対にて財政悲観有価証券下落の見込との事を聞く。是も余り当てにはならぬと思ふ。九時頃まで話し、帰宅せんとして狸穴坂にて伏兵あるを偵知し、銀座辺まで迂回す。是は今夕万朝の号外遊弋露艦全滅の報を確かめんと欲したる故なり。果して此報は海軍省より虚報なるを言明したり。世俗の期待心に満足を与へんとする此種の報はとふして出るものにや。十時過になり帰れば高島、小泉、菊地、森元、小父さん悉く集つて居た。大人の勢当るべからずとの事、余は一回丈でやめた。

1904(明治37) 年7月29日

前日開通合名会社よりコラン氏へ送つた小荷物行違ひの報あり。コラン氏宛にて再び此報道を告知する手紙を認めた。但し今日の般便には間に合はす。来月二日布哇廻米船にて出す筈なり。

1904(明治37) 年7月30日

三四日前から朝顔見物を約束したが天気都合あしく延び延びになつたが、今朝はこま四時頃から起きて騒ぎ朝飯の支度で遅くなり五時が鳴つてから家を出て大門から電車に乗り六時過きに入谷に着いた。モー太陽は大分昇り花を見るに少々遅刻の方である。併し朝顔のみならず外の草花も色々あつて中々気持は良い。最初にはいつた植木屋拾銭づつのを二つ求める。是は届けてよこすとの事、中々便利な訳だ。三四軒の植木屋に入つたが新花園とかいうのが一番広くて見事であつた。併し楽隊には閉口する。こんな処でも人が少し出るようになると兎角生人形なんかこしらへてドンチヤンやるのは困る。然し是も大世間の必要具に相違ない。段々日が出ると暑くなつて来たからどこにもまわらす最近の電車に乗り九時前に帰宅す。昼飯後三時まで午睡した。夜九時過に小代高島来り大人今夜は不景気極る。先日得物の一部を返上す。十二時過る。 〔欄外に「浦塩艦隊遂に津軽海峡を脱過し帰航すとの報あり。」〕

1904(明治37) 年7月31日

朝より空合が悪かつたが十一時頃より雷鳴次第に劇烈になつて来る。十一時半より十二時頃最も甚しく数回落雷の地響きがする。近来にない大雷りであつた。東京中では三十五ケ所も落ちたとの事。満州激戦の音響を市民に感知せしめんとの雷公の注意一種の心切と思はねばなるまい。今日は帝国文学講演筆記の訂正を終り夕方安藤勝へ郵送した。黒田の母堂今朝十一時永眠の報あり。七時車を飛ばして訪問、来客多し。合田藤島なんかと話し後佐野も来た。十時佐野と共に辞し帰る。〔欄外に「旅順攻撃開始の報あり併しあてにはならぬ。」〕

1904(明治37) 年8月1日

今日始めてツクヅクシ蝉の声を聞いた。午前日記認めにて過す。午後は天気になり乗輪永峯に赴く。佐賀来信持参寺上金其他送金五円父上より受取る。芦の湯行愈明後日出発の由なり。増田氏も同行の筈。夜食御馳走後園内一周畠作気候順調の為見事にそだつ。丸庭鹿の子百合満開せり。黄昏帰途に就く。途中一本松増田氏に立寄る。八時過小代来明朝輪行の事を約す。

1904(明治37) 年8月2日

朝四時に離寝直様小代を誘ひ青山の高島の処に出掛け、大人を喚起し五時に同処を出発、大山街道を走る。郊外朝靄の景色妙なり。途中無事六時に二子渡船場に達す。河を渡り溝の口の或宿屋に入り朝飯を命ず。玉子焼にて酒一合を別ち二十五銭の割前は少々お高いやうだ。七時半同地を出で鞠子に向ひ、向岸の道路を行く。日は熱けれども風ありて汗も出ず。鞠子は通り過ぎて平間の渡し場を越へる。小代の発起により著衣を脱して川に浴す。夫より池上に出て本門寺の周囲を迂回し馬込三方辻の茶屋にて暫く休み、桐ケ谷道より猿町坂を登り十二時永坂更科にて昼飯を喰ひ皆々我家に立寄休息後散ず。夕こまを打連今福牛店に晩食をなし帰路佐野の宅に立寄、京都派遣員の件話す。旧妓夫の手紙到着不快を極む。本日楡樹林様子嶺進軍の号外出る。

1904(明治37) 年8月3日

自転車の後輪漏気の修繕にて半日暮す。夜食後佐野前約に依り来る。共に小代を誘ひ黒田の見舞に出掛ける。合田中村定連の外小林磯谷伊藤源ちやん等が来て居た。十二時頃まで話した。柝木城附近の戦報出る。

1904(明治37) 年8月4日

朝青山の葬具屋に赴き黒田に贈る榊壱対人夫附トロアにて誂へる。帰路南町を迂曲し墓地内を通過し、戦歿軍人の墓などを見ながら霞町の坂を下り、三聯隊の周囲を歩して帰つた。午後竹沢来大塚琢造亦来。

1904(明治37) 年8月7日

八時頃大塚を尋ねたが不在。帰りに佐野氏方に立寄る。午后再び大塚の処に行つて面会話しといふのは白耳義博覧会一件で是非拙者を引出さんとする相談であつた。こちらはとこまでも竹沢を推薦して断つた。一寸洋行もやつて見たいが博覧会にはこりたから大抵の事では御免を蒙りたいと思ふ。殊に先発で万端の準備を整へる抔といふのはとても引受ける見込は立たないから仕方がない。

1904(明治37) 年8月9日

今朝は早起きをして八時半に昼飯を済し、それから小代を誘ひ、電車で大井村の海岸に家を借りて居る礒谷の処に涼みに行く。彬及こまも同道した。到着すれば磯谷は留守で静岡の甥御という先の光太郎が居た。直様海に飛込んだが水は浅いので女小供には妙である。蜊蛤なんかを足でさがし大喜び、昼は蟹の御馳走なり、昼後も寝転んだり水へ入つたりで過し、其内に主人も帰つて来た、米利堅式蛮カラアも来た、風は中々涼処なる、小鯵の酢のもので晩飯も甘かつた。一日の保養を遂げて八時過から元の電車で帰つた。

1904(明治37) 年8月12日

正木校長午前九時半の汽車にて聖路易に出発するので新橋まで見送る。後銀座で図引紙を買つてコウフラニオス土器画模写をなす。夫れで夕方までかゝつた。

1904(明治37) 年8月14日

午前十時過中村勝さん来る。白馬会書記近藤智敬急病にて死去せるに付相談の用であつた。今朝対州沖海戦中との号外が出たが後浦塩艦隊大敗リュウリック撃沈の報来る。上村艦隊大手柄前日黄海大海戦の結果よりも一般の感情を刺戟した事は確かに著るしい。夫丈浦塩露艦の今までの働きが思はれるが最早大した事も出来なくなつた。四時半頃竹沢来る。五もく飯で晩餐後佐野小代高島等集つたと記憶する。

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