1905(明治38) 年5月21日

今日は天気なれば郊外散歩の約束であつたが雨では仕方がないが兎に角と思ひて十時に小父さん方に行つた。誰れも来て居ない。其内武ちやんが岩公を引張つて来、猶菊地と高島とを喚びに行こふとする処に二人はやつて来る。大に景気づき扨どこに行くやというので今日は最平凡でしかも余りやる機会のない浅草見物というを持出してそれに極つた。昼飯は菊地の発議で両国の坊主しやもとなり。五人連れ立ち青山御所前より築地両国行電車に乗込。一ト走りで元の広小路に着。新造の両国橋を渡り回向院前の古風な鳥屋にはいる。評判程の事はない。随分硬い肉である。小父さんは腹が悪いといつて喰はず、其内大人の園芸攫千談がある。一向陰気で振はない。鳥屋を出て再び橋を渡り一銭蒸気改め三銭蒸気に乗り吾妻橋まで行き観音に向ふ。奥山の所謂魔窟を一円して後、大人岩公と三人で花屋敷にはいつた。是れは始めて入て見たが中々よく出来て居て今時の小供には至極適当な見世物と思はれる。それから池の角の茶屋に休んで二人を待合せパノラマ館あたりまで廻り再び奥山の軒別ひやかす。小代が楊弓をやるというので江崎の裏の一寸奇麗な矢場にはいつた。外から見れば女が一人で居るやうだからはいつたら火鉢の側に蹲まつて居る一人の男が見へたのでぎよつとした。小父さんは仕方がなく上り込んで楊弓をやる。女はお茶を入れて一同に出す。厭味のないおとなしい風で大に気に入つた。火鉢の側の男は高島大人を見て居たが終に語をかけてあなたは水野さんではないかと尋ねられたので皆々大に驚きあつと叫んだ。よくよく聞けば二十年計前に行つた事のある石版屋の職工で今は一軒出しているとの事、此れは今日の一大奇談であつた。其内岡持を提げて誂への鮓を置いていつたから余り邪魔をするのも気の毒であるから二十銭の茶代を与へてこゝを出で直そばの汁粉屋にはいり甘いのを二杯づゝやりそれから馬道の方を廻り、大人焼印を買つた。吾妻橋より又一銭蒸汽で両国に行き浜町の吉田で天プラ蕎麦を一杯で晩飯代りとなし皆んなと別れて三田行電気に乗り溜池研究所に行つた。溜池にては今夜光風二号の打合せ会である。皆で十一人計会員が集まつた。帰りは佐野と一緒。

1905(明治38) 年5月23日

お勤め例の通り。上野の帰り向ひ風にて閉口した。狭い通を捜して人形町から江戸橋を渡り三十間堀の方を廻つて五時過に帰る。八時に溜池に出掛る。編輯委員会で二号の挿画を極める。十時半に散ず。

1905(明治38) 年5月24日

今日も上野廻り二時より解剖講義には直暗な夕立空でピカピカやり閉口した。併し帰る頃には雨は止んだ。合田と一緒に車を連ねて虎門外まで同行す。夜松方氏から例の電話で呼びに来り岩村を誘つて行つた。杉竹が来て居つた。今日は浮世絵の鑑定ではなく英仏画家の評判話しで十一時過まで居た。

1905(明治38) 年5月26日

午後一ツ橋へ電車で行つた。夕五時頃牙彫撰科生保坂鉄次郎が来てガイヤールに呼れて行くが連れがないから高商の教師の帰国するのに紹介を頼むとの事。気障なフロック爺に願うのはいやではあるが兎に角話して置く事を答へた。読売記者坂口二郎というのが新聞種の合力に来たが追払つた。露艦五隻上海に入り他の三隻は東北に向つたという号外が出た。是から何事か海上の活動が生ずることゝ思はれる。株は下落。

1905(明治38) 年5月27日

ボツボツやつて居て路がわるそうだから歩いて出掛けたが天気になつて馬鹿を見た。帰りは小川町を散歩し夏帽をひやかしたが思はしいのがなくてやめた。午後一時過に考古学生中村士徳来り希羅考古学の訳文に着手したといふから賛成して置いた。外は不得要領でかへした。入浴加減よし。今日は久し振りの快晴で全くの夏気色になる。裏には朝顔の苗大分成長した。新緑の色はまぶしきやうである。夜小代小泉後高島も来た。十一時半散。

1905(明治38) 年5月28日

朝七時前に保坂鉄次郎来り共に外出。築地メトロポルに赴きブロックユイスに紹介、船中の事を依頼す。帰途天気晴朗如何にも心地よし。采女橋林忠正の邸を通り掛けに一寸訪問した。先月の末に帰朝したとの事。庭に出でゝ其構造の自慢話をする。又同氏の話に昨日対馬沖の海戦は万事こちらの註文通りに行つたので好結果。夕方には敵艦隊列を乱したとの報道達して居るとの話、少時の後辞し途中日影町の中田屋で夏帽をピアストルで買つて十時前に帰宅す。午後一時前よりこまに促され買物に出る。九段行に乗つて小川町で降り勧工場に入り夫より引返し洋傘店を二軒ひやかし終に七○のを一本買つて大喜び。須田町より日本橋まで走り梅園といふ汁粉屋にはいり後茅場町まで歩いて三田行を待つて帰る。夜食後六時過より目黒に出掛ける。丁度竹野氏老人が来て居て覆盆子初摘中であつた。海戦の評判話などして居る内空が暗く降りさうになつて来たので八時過から帰つた。

1905(明治38) 年5月29日

今朝高商学校で一昨日の海戦大勝話が盛んである。殊に村瀬氏の新報は最傾聴された。此事早くも学生間にも知れ渡つて休課の請求一年生の間に起つたが許さずにやつてしまつた。併し専攻一の方はなれ合休業をなし一時間早く引揚げた。午後三時半より入浴して居る内に号外の声がするので彬を走らせる。愈日本海戦の公報が発表された。実に意外千万な好結果である。一昨日昨日の戦に敵艦十三艘を撃沈し六艘を捕獲し、此六艘中には最新最大の戦闘艦アリヨルもはいつて居る。大勝利も実に此上ない大勝利、敵国最後の頼みの綱も茲に全く切れてしまつた。此上は如何なる方法を以てしても戦を継続すべき手段は全く尽きた事である。しかも我国民は愈海陸軍の手練に信頼して戦争の為めに犠牲を惜まぬ様になる。利は益々利にして敗者も愈不利なるは天下の常勢である。こんな事になつても少しの損失位は眼にくれないでもいゝ帝国は愈万歳なるかな。夜メンチェル伝を記す。

1905(明治38) 年5月30日

本日高商で平素最も勉強なる本一、二三の組で馴れ合ひ休課を請求したが聴入れなかつた。同校では祝捷の意味にて午後は休みになつたが何にもならない。海戦大勝利の号外続々出る。一報は一報より意外の好結果である。敵艦捕獲敵司令官の生擒等真に空前の偉勲である。

1905(明治38) 年5月31日

一ツ橋では専攻一年は休みを請求し本一の四五は総欠席。追々試験期日に近づくので到底もう真面目な稽古は出来ない。上野は例もの通りである。夜佐野が来た。林の歓迎会出席するにつき相談であつた。十時頃まで話す。本月は開戦以来の最も記臆さるべき月である。よもや実行はされまいと思つた波児的艦隊二十五隻は堂々と進行して殆ど全部殲滅された。こんな事は是からは滅多にあるまいと思はれる。

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