1905(明治38) 年2月21日

九時に家を出たが徳田の妻は間もなく帰る様子であつた。今日の講釈は甚た不出来であつた気がする。一ツ橋から上野に行くに時間が迫つて甚た究屈に思はれた。四時半過に帰宅するにこまは本郷に徳田と共に出掛けてまだ帰らず。留守は小女独りの処に表に怪しき男がはいつて来たといつて大騒ぎをして居る。幸ひ今日は裏の戸の破損を繕ふために大工が来て居てまだしもよかつたが甚だ不用心な事である。こまは六時前にやつと帰つて来たから不注意を戒める。夜は仕事をした。

1905(明治38) 年2月22日

今日は降り出しそうな天気であつたが奮発して自転車にて出掛け大当りであつた。午前上野では頭骨を始める。上出来の方。例刻帰宅す。今日の新聞に拠れば昨日ブールス市場大好況を呈し、電気及瓦斯株騰貴せり鉄道株は余り動かず九州株は五拾七円止りである。此好況は勿論露国の紛乱に依り平和克復の企望生じたるとの説多く、且倫敦に於ける本邦公債は益々騰貴し四分利八十三磅を超え六分利は百四磅に昇りたる影響現はれたるに依る。此際期待せらるゝ所は唯沙河大決戦の結果如何にある事にて結氷の融解以前に是非共軍の行動を見るべく本月二十日には我軍の活動を開くべしとの説は早く伝りたる所にして、此際露国の出来事は一として士気の沮喪を招かざるものなく為めクロパトキンが神経衰弱を報するあり。或は総司令官の位置危しと伝ふものあり。兎に角十月以来対峙して動かざりし二大軍の決戦は今や眼前に迫り其成果は彼我の形勢に大変動を生すべきこと勿論である。 丁度一ヶ月彼是れ取紛れて日記を怠つた間に戦争開始以来の最大なる捷利が事実となりて現はれたのである。勿論此事件は世界の歴史上に偉大なる記念を遺すべきこと疑を容れないので奉天附近の会戦は二月の廿七日かに右翼軍の清河城占領を以て開始せられたが同時に旅順より参加せる乃木大将の軍隊は最左翼に廻りて意外なる大活動をなし、忽ちにして長灘新民屯の方面より猛進して奉天の西北、敵の退路に迫り東西相応して包囲の形勢は大成したれば敵軍全く潰乱して三月八日総退却を始めたるを激撃、三月十日には奉天我有に帰し猶追撃急にしてやがて鉄嶺も防備の暇なくして我軍に委ね遂に開原及ひ昌図までも前進占領せらる。敵の満州軍は茲に於てか其太平洋艦隊と殆んど同一の状態に打なされたといつてもいゝ我軍の功烈真に其比を見さるものである。併しながら一般の人気は勝利に忸れたといはんか割合に平気で此赫々たる武勲を迎へたやうである。株式市場の如きは実に反動的低落を告げたるに至つては不思議な人情といはざるを得ない。さりとて斯くまでの成功は世界の人心を感動せざるの理なり。そのお蔭にて英米市場に於ける我募債は四分五厘九十を以て三千万磅の巨額は忽ち之に応じ同時に敵国の外債談は巴里に於て不調に帰せんとする。此際進退に究したるは一月以来亜弗利加の一島に寄り泊せる波児的艦隊の行動にして其第三四艦隊も日月の経過に促されて止むを得す蘇士を超へて東航せんとするのである。或は其本隊も既に馬島を発して東行せんとすとも到底それをなすべき勇気ありとは信ずるを得ず、万一然ることあらは我は再ひ之を粉韲せんこと難きにあらざるなり。兎に角是れからの成り行きは戦争の永続する程益々我に利なるべきは決して疑ひないのである。

1905(明治38) 年2月28日

一ツ橋より上野に廻る。例の如し。学校の帰途に校友会雑誌編輯委員の慰労会で湯島天神前の元酣雪亭跡龍鳳館という支那料理に正木氏始め一同集る。料理は勿論此間竹沢の御馳走であつた神保町のとは比較にならない。大に日本化した煮方であるが併し直段の割には一寸喰へる。別誂への八宝飯などは上出来であつた。話しが大分はづんで九時近くに散じた。

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