本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1897(明治30) 年2月1日

 二月一日 月 雨 終日外ニ出ず 午後佐野の頼みの下画を始めた 夕方に合田が来 伊藤と三人でめし 後吉岡が来 十二時がなつて合 吉の二人ハ帰つて行た

1897(明治30) 年2月2日

 二月二日 火 今日ハ実ニ暖な天気だ 十時半頃ニ起き昼めしハ母上と縁側の障子など開けて新らしく出来た庭をながめながら食た 桃色の梅の花が咲いて居て春の心地だ めし後に庭ニ出て母上としやぼてんの植かへなどした 四時頃合田が来 二人で佐野の処ニでも行うかなど云て居る処ニ吉岡が青山の帰りだと云て来 間もなく佐野も来た 又湯浅と白瀧と来た 菊地と小倉が来 中々な人数ニ為た 皆を待たして置て九鬼氏の処ニ行たが病気だと云て逢はず 帰りニ暇乞に横山氏ニ寄つた 之れも留守で逢へず 横山さんのおばさんハ明日いよいよ台湾へお出ニ為る筈 晩めしニのこつて居たのハ菊 吉 合 佐の四人 菊地が又カルタを持て来て居てやろうと云ひ出し自分で麹町まで碁石を買ニ行きとうとう始めた 吉岡ハ用が有るので間も無く帰つて我々ハ十時半頃まで王の勝負をやつた 十一時頃ニ皆帰るので送つて出かけ榎坂まで散歩して来た 内へ帰つてストーブの前で母上としばらく話し一時頃ニねる 横山のおばさんが一寸お出ニ為つた

1897(明治30) 年2月3日

 二月三日 水 朝学校ニ出 昼めしハ藤島と精養軒でやる 内へ帰つて居たら父上がお出ニ為つた 一時間足らずストーブの前で色々な世間話をした 五時過ニ安藤が来一緒ニめしを食てそれから大工攻撃と出かけた 十二時二十分位前ニ帰る それから岡田へやる手紙を書く(一日附の手紙の返事)

1897(明治30) 年2月4日

 二月四日 木 朝長原から司馬江漢ニ付ての手紙が来た 父上がお出ニ為つて御一緒ニめし 丁度食仕舞た処ニ杉吾が来 それから体育会から入会をすゝめニ来た人が一人 田中松太郎 久米 安藤 佐野が来た 晩めしハ久米 安藤 佐野と四人で宝亭で食ひ内へ帰り珈琲をのんで九時前まで話 それから伊藤を合せて五人連で溜池ニ出かけ安藤ハ帰り合田の工場で菊地 松波 山本の三人が会し都合八人 菊地の二階で十二時半まで二十一カルタをやつた 帰りがけニ田町のそば屋に杉 合の二人と這入つた 二時ニねる

1897(明治30) 年2月5日

 二月五日 金 朝学校ニ出 昼めしニは菊地を引張て精養軒ニ寄つた 内へ帰つて台湾へ出す手紙と岡田へやる手紙をかき四時頃から佐野の処ニ行きストーブの前飾の代を渡し一緒ニ小代をたづねたニ留守処佐と二人で豊楼でめし 九時前ニ合田も来て一時間位居た 十二時一寸過ニ内へ帰る

1897(明治30) 年2月6日

 二月六日 土 昼前ニ松波が来 遇々佐野が来 久米が来 かるたを始めた 夕方ニなつてめし食ニ出かけた 伊豆屋ニ菊地 合田 吉岡が集まつて都合七人 めし後ニ菊地の内で十一時半頃まで又二十一をやつた

1897(明治30) 年2月7日

 二月七日 日 昨日今日ハ非常ニ寒い 今日ストーブの前飾が落成した 十一時過ニ久米が来一緒ニめし 今日ハ伊藤も来て居り支那の鎧をアトリエの中にかざつた 午後佐野もやつて来て二十一をやつて暮らす 晩めしニハ合田も加つて又めし後ニ二十一をやる 十一時頃までやつてそれから皆の帰るのを送つて散歩して来た

1897(明治30) 年2月8日

 二月八日 月 十時半頃ニ起き中村へやる手紙をかき伊藤と昼めしを食ひ二時半頃ニ善兵衛が来て橋口家の経済話を聞き三時過ニ合田が来て一緒ニ佐野の処ニ行た 久米とも逢つたが久米は帰つて行きオレ等三人ハ菊地を呼び出し伊豆屋でめし 夫れから四人で内へ来て例の二十一で十一時まで 今日ハ昨日より暖かだ 昨日と一昨日の寒さハ此の冬ニなつて一番の様だつた

1897(明治30) 年2月9日

 二月九日 火 学校ニ出て授業を仕舞つて内へ帰つたのは一時頃 アトリエの片づけや庭の下知などした 夕方ニ藤島と菊地が来 伊藤も一緒ニ晩めし めし後ハ例の二十一で十一時過まで 皆が帰つてから新小説を読み始めねたのは二時半

1897(明治30) 年2月10日

 二月十日 水 十時過ニ起き庭造の下知などした 午後杉吾が来 道鏡の話などが出 其内ニ村瀬義徳と云書生が見へ帰るとめしと云段ニなる めしが始まると吉岡が来 菊地が又永富が来 大混雑 伊藤も一緒ニ皆でめし 菊地ハめしを食て来たから一人丈食ハず めし後ニ永富ハ帰り杉 菊 吉 伊と五人で又十一時過まで二十一をやる

1897(明治30) 年2月11日

 二月十一日 木 朝久保某と云学校の生徒が来 何を聞くと云事も無く話す 其内ニ松波が来 仏語の学校を建てると云事ニ付て話す 昼になつて書生ハ帰り松波と伊藤と三人でめし 午後春山郁次郎が来た 久振で逢つた 此頃ハ浜町二丁目十七番地とかニ居ると云た 夕方まで話す 今日ハ客の為ニ外出も出来ず 又庭造の下知も出来ず 佐野が来たので松波と三人で六時頃から出かけて溜池でめしを食ひ又例の二十一などした 菊地 合田等が集まつた 一時頃ニ帰る 今夜ハそんなニひどく寒くなく月ハ中々よかつた

1897(明治30) 年2月12日

 二月十二日 金 朝学校ニ出 授業を済まし校長ニ逢つて岡田から来た手紙等を見せ精養軒で一人でめし それから内へ帰つて居ると春山が来 色々な困難話の結果ハオレの油汗をしぼつて其困難を半分する事となつた 佐野がシユミネの上に飾る画のカードルの図を引て持て来て呉れた アトリエニ這入つて夕方まで勉強 佐野と一緒ニ鶏の汁でめし 其最中ニ杉が来 道鏡話で十時まで笑ふ 三人一緒ニ出 佐野と菊地の角で別れ杉と二人で永田町の方から帰る

1897(明治30) 年2月13日

 二月十三日 土 少し早目に昼めしを食て学校ニ出た 授業が四時過までかゝつた 今日ハ西洋画科丈の親睦会だと云ので藤島 和田などと連立ちて出かけた 場所ハ神田の淡路町の舞鶴と云小さな料理屋だ 凡二十六七人集まつた 久米も来た 書生の芸盡で一寸盛な会だつた 八時半頃ニ切り上藤島 久米と日本橋の方へ行つた 藤島ハいゝかげんから別れた 久米とぼつぼつ歩いて箱館屋で休み土橋から赤阪溜池まで車ニ乗り内へ帰つた

1897(明治30) 年2月14日

 二月十四日 日 合田が第一ニ見ゆ それから順々ニ来たのハ菊地 長沼 佐野 此の三人と伊藤と五人で昼めし 昼後ニ来たのハ櫻井忠剛氏 村瀬義徳 小代 吉岡 杉だ 又合田も来た 其処で夕方に為つて菊 佐 小 合 杉 吉と金子で牛鍋を食ひお揃で溜池の方面へ進軍 柳堤橋附近を占領 道鏡が例の昔話で大ニ笑つた

1897(明治30) 年2月15日

 二月十五日 月 長沼より依頼されたる出品一件で学校へ出かけ一と通り校長ニ相談しそれより浅井をたづねしニ京都へ行きしとて留守 又学校ニ引返へし藤島 和田 合田と四人で揚出しでめし 其処から出て長沼の処へ行たらこれも留守 松岡の内で二十分計話して帰る 夜食ハ伊藤と二人 めし後ニ杉 道鏡が来 面白く三人で十二時まで話す

1897(明治30) 年2月16日

 二月十六日 火 いよいよ今日から裸体の女を手本ニして画を始めた 始めて見ると面白い 昼めし後ニ佐野が来半時間程居つて帰り四時頃ニ久米と安仲が来た 五時一寸前ニ仕事をやめ久 安と溜池の牛屋でめし 此処で菊地と山本ニ出遭ひめし後に菊地の内で二十一をやつて遊だ 合田もやつて来て加つた 「かるたとり夜をふかしつゝ帰るさにあられ降るなり溜池のみち」だナアーと思いながら霰の中を合田と見附まで来て内へ帰つたのハ一時 それから神戸の中井精一ニやる手紙をかいて寝る

1897(明治30) 年2月17日

 二月十七日 水 終日裸の手本で勉強した 今日来た客ハ浅井 佐野 荒川規志 小西某 学校生徒 藤島 六時から上野ニ出かけ精養軒で安藤と一緒ニめし 安藤と広小路を散歩し鳥越の方まで行く 十一時過帰る 今夜ハ月ハいゝが風は有るし中々寒い 本当の東京の冬の夜だ

1897(明治30) 年2月18日

 二月十八日 木 朝村瀬ニ起された 風強く中々寒 七丁目の荒川氏ニお別ニ行きお秀さんに逢つて三十分程話し文部省へ出て木村氏ニ逢つて岡田の事など取極め帰りがけニ新二郎の処ニ病気見舞ニ玄関まで行た 今日ハ伊藤ハ見へず 一時頃ニ佐野が来 それから追ひ追ひ杉 松波が集り晩めしハ四人で溜池でやらかし十一時過まで遊で帰る 今日ハ午後も夜も二十一 午後四時頃ニ白瀧も一寸来た

1897(明治30) 年2月19日

 二月十九日 金 古谷久綱が来て十二時まで話して行たので仕事ハ丸でだめ 午後仕事を始めて居た処ニ岩下清周が来 十年振計で逢つた 又白瀧が来た 夕めし後誰も来ず 伊藤が十二時頃まで話をして帰つた 今日午後より雪

1897(明治30) 年2月20日

 二月二十日 土 朝学校に出 昼ニ久米と精養軒でめし 久米ニ別れて又学校ニ行き三時から新橋停車場へ走る 四時十分の気車で荒川氏が立たれた 長沼も同じ気車で立つた 帰りがけニ合田の処ニ寄り吉岡 合田と伊豆屋でめし 杉がたづねて来て一緒ニなりそれから吉岡ハ帰り二人ハ内へ来た 久米もやつて来て四人で例の二十一をやつて遊ぶ 十二時頃ニ皆帰る それから母上と話をし又松波や小代ニやる手紙をかき二時頃ニねる 今日ハ終日曇で雪ハとけず

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