本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1897(明治30) 年2月21日

 二月二十一日 日 今日ハモデルが来て勉強した 十一時半頃ニ前田孝楷氏が来 伊藤も来 午後ニ佐野 杉 松波 菊地 合田夫妻が来 晩めしニ佐 杉 菊 松 合と米福ニ出かけ其処ニ小代と久米が集り夫れから溜池で又例の二十一 佐ハめし屋から直ニ帰つた 内へ二時少し前ニ帰る

1897(明治30) 年2月22日

 二月二十二日 月 千田貞幹氏が七丁目へ転居及び橋口子供等の件ニ付見へた 今日手本が来て夕方まで仕事した 安仲 小林が二三時頃ニ来 晩めしハ安仲と吉岡と三人で食た めし後二人とも帰つて仕舞ひ十時頃から母上と三十分程麹町から平河町 永田町の辺を散歩して帰つた

1897(明治30) 年2月23日

 二月二十三日 火 朝学校ニ出 昼めしハ菊地と精養軒で食ひ二時から内へ帰る 三時過ニ Mahé と云仏人がやつて来 夜ハ杉 佐野 小代 菊地 合田と溜池ニ集まる

1897(明治30) 年2月24日

 二月二十四日 水 終日内でモデル相手で仕事した 新二郎が午後ニ遊ニ来た 夕方から合田の処ニ出かけ松波と三人で伊豆屋でめし 今夜合田の処で十二時頃まで久米 上田 松波 合田と寄合つて仏語の学校を立てる事に付て大議論 杉と菊地が見へて居たがいつの間にか二人とも帰つた

1897(明治30) 年2月25日

 二月二十五日 木 昨日も暖だつたが今日も中々暖かだ 終日仕事した 又暇々に植木屋を相手にした 夕めしニ松波が来 それから杉 菊地 小代 合田等が追々集まつて例の通り二十一を十一時頃までやつた

1897(明治30) 年2月26日

 二月二十六日 金 終日仕事した 今晩松波がめしの御馳走をすると云事だつたから夕方から出かけた 小代 佐野 菊地 合田等が已ニ来て居た 八時頃ニ為つて久米も来た 皆ハ花がるたを始めた オレハ弘法大師の字の手本などを見て暇をつぶした 十二時頃ニ皆引取る 今夜十一時ニ春山が来 二時過まで居たのでたいして勉強ハ出来ず

1897(明治30) 年2月27日

 二月二十七日 土 十一時に精養軒でマエ氏と出逢ひ一緒ニ高橋源の展覧会 明治美術会の陳列場を見 学校ニ行淺井等の水画を見せ又美術協会の芝居ニ付ての見世物を見 精養軒に帰つて食事した 食後マエ氏に別れ学校に出て授業 四時頃ニ浅井を訪ひ内へ帰る 伊藤と夕めしを食つた処ニ吉岡が来 菊地が来 四人で十一時頃まで二十一をやつた 今日学校で大橋乙羽氏ニ逢ひ春山の事を話して頼で置た

1897(明治30) 年2月28日

 二月二十八日 日 十時半頃ニ起き風呂ニ入つて居た処ニ加藤重任氏が見へ橋口家の子供の事ニ付て相談した 三島子が来て選挙の事ニ付て話が有つた 午後植木屋の下知などして居た処ニ久米が来 つゞいて吉岡 松波 和田が来た 晩めしハ久米 松波と伊豆屋でやらかす 合田 佐野 菊地等が追々集まつた 後溜池で松波 佐野 合田と四人で又二十一などして遊だ 一時前帰宅

to page top