1901(明治34) 年12月31日


 十二月三十一日 晴 (伊豆旅行記)
 八時に起る 昨夜は大分寒いやうで有つたが今朝起て日当に出て見ると中々いゝ心地だ どうしても東京よりハ暖かいに違ない 宿屋にてハ給仕女のよしあしは居心地の上に大に関係する次第であるが昨夜より吾々の世話をした秋と云女はこう云ふ場処柄の者に似合ハずうぶなところが有つて気持悪からず 下男もあつさりして居てよし
 九時五十四分発の気車に乗り三島で乗り換て大仁にて下車 時ニ一時也 大仁より修善寺まで一里八町の道はがたくり馬車にて走る 二時浅羽といふ宿屋に着き入口の向ツて左手の古き二階に陣取る 三時に漸く昼飯にあり付け 気分悪き程食ひ込み散歩に出掛く
 頼家の墓より宿屋の建ち並びたる辺を過ぎ修善寺へ廻ハる 十二歳の時に母に連れられて始めてやつて来て三十六歳の今日再び此処を視ることゝ為る 此の二十余年間に拙者の一生に取て随分貴重な年月は過ぎ去つて仕舞つたが修善寺は見違へる程にハ変つて居ない 勿論宿屋などが大に立派に為つて居るにハ違ないけれども矢張大仁までの道路にハ石ころ多く桂川の中に在る独鈷の湯の鳥籠然たるくづれかゝつた垣も記憶に存したる儘也 湯に入り八時頃に飯を食ふ 宿屋より晦日蕎麦の馳走あり 階下に厄払の声聞ゆ 治平老人一杯機嫌で維新前の東海道の道中の有様などを語り間も無く寝て仕舞ふ 久 佐 長の三人はカルタを始めて忽ち夢中と為る 拙者は仕方が無いから寝床の中に横倒しに為つて居て火鉢の火に炭を継ぎ高く積だり潰したりして居る 後遂に餅焼を仰付けられたり 長的注文の酒も来りカルタの止みたるハ正十二時也 まあまあ目出度き年の暮と云ふ可し
 十二時が過て来年となり餅を食ひ又キンピラごぼうと長的持参の鰻の肝の佃煮とにて酒を飲む 誠に心地よき年の始めだ 午前一時に眠る