1904(明治37) 年9月23日

八時半に小泉来り小代を呼び打連れて佐野の処に立寄り十時に出る。公園より電車で本郷行、夫から原町竹沢を誘ひ西瓜の御馳走になる。正十二時五人連で竹沢の宅を出掛ける。裏通りを抜けて巣鴨に出で停車場で十二時半頃の汽車に乗り田端にて三十分余待ち一時半頃に赤羽にて下り渡船場に向ふ。前週の雨て荒川洪水畑も家も水浸り玉蜀黍の穂が水面に浮び二階口に小舟を繋いだ様子など珍らし。渡船は此間を掉さし大迂回をして向岸に渡たす。渡し銭五銭の値打は充分にある。河を渡れば川口町である。有名な鋳物屋の集りたる町なり。此町に入りたるは二時過で一同は大に飢を覚へたればやがて大通りに出で某川魚屋に飛込んだ。鯉に玉子に鳥丈しかないというので、玉子焼にさし身鳥鍋鯉こく等を誂へた。下女の奴等酌婦風にベタつく。鯉こく丈は甘く食つたが一人前八十銭の割り前には少々驚いた。最初の飯屋主義とは大分見当違ひであつた。併しそれで腹丈はシツカリとなつて右の料理屋を出たのは既に四時近くである。兎に角是から水の様子を見ながら千住まで歩こうといふので道のりを尋ねると三里だという。明るい内には大丈夫だと保証されて堤の上を歩き始めた。是が所謂荒川土手でやがて東京府管内にかゝれば両側に桜が植られて向嶋の通りである。土手には一面彼岸花が満開してそれが水がひたつて居る夕日の眺めは中々妙である。処々に村の者が網を持つて魚を取つて居る。余り沢山取つた者はなかつたが夜になれば中にはいるといふ事也。三里の土手道存外早くはかどり六時には千住の入り口に来た。分れ路の茶屋で梨子を喰ひ北千住停車場にいつて丁度六時三十分何分かの汽車に乗る事が出来た。東武鉄道中々ユツクリしたもんで両国まで一時間余を費し八時近くなり夜食には小泉案の青物町ときまつて居たが余り遅くなつたので竹沢案浜町の蕎麦屋と極つた。僅の処を電車に乗り日本橋倶楽部で下りた処の横丁に其家が漸く見当つた。吉田という家で成る程随分気取つた処で家も道具も総て粋を極めて居る。竹沢が自慢の揚けたての天プラはおしまひで残念だつたが、之に代りてカツレツそばというを試みる。鳥の油揚けで中々美味。盛籠は藪派である。色々喰つて飲んで割り前が二十五銭とは昼とは雲泥の相違である。食後に小泉老人は頻りに色気を催したが余り熱心なる賛成者はなく兎に角麻布の方に向ふ事になり神田廻りの電車に乗る。竹沢も一緒で芝の山門まで来たがもう十時過きたから遂に小泉の案は消滅し、松の木陰の共同椅子に腰掛けて暫らく話した後遂に解散、家に帰れば泊る積りで皆々休んで居た。押かけられでもしたら大迷惑な訳であつた。

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