1904(明治37) 年9月1日

山口の周旋にて来れる下女今朝逃げ出す。朝九時和田との約束により黒田の家に赴く。展覧会設計の相談をなす。合田中村も同席した。後昼飯会食合田麦酒徳利を捻ち切り負傷大騒ぎであつた。食後雑談に時を過し三時半に帰宅す。夜食こま北日ヶ窪の石岡という請宿へ出掛けて雇女の申込をなす。小泉小代来会す。

1904(明治37) 年9月2日

暑気又々甚し。竹野のおかたさん出征兵見送りのために来る。旅順損傷兵補充のため日々軍隊の出発あり。此模様では中々方附そふもない、併し遼陽の大戦は頃日我軍の勝利に帰し昨日より号外続々出る。敵軍の退却は最早疑ひなきが如し。夜食後永峯御見舞。

1904(明治37) 年9月4日

今朝秋冷殊に軽快を覚ふ。九時頃に溜池に電話を掛けに行つて帰りに三河台を尋ぬるに既に小泉翁と片町に出掛けたという事を聞き直に帰宅すれば両人門口にて立話しをして居る所であつた。それから例の戦が始まり昼は大和田の丼を注文する。午後三時過に佐野も来た。夜食は久し振りで龍土軒に一同出掛けた。遼陽占領の号外出る。

1904(明治37) 年9月5日

今朝学校に至り石井金次郎を京都に出張せしむるため旅費受取る。帰途中丸を尋ねたが不在、又印刷会社に立寄り入場券印刷の事を話す。午後黒田を尋ねた。夜和田来訪。

1904(明治37) 年9月6日

ファルデルとの前約に依り八時より商業学校に赴きたるに遂に来らず。校長に面会せんと思ひ十一時待ち遂に無用のクールスになつた。夜小泉小代来。

1904(明治37) 年9月8日

昼頃日本画の生徒毛利落第生のため請願に来る。午後山本芳翠従軍につき旅費の調達を頼みに来る。止むを得ず会の預金中より百円を貸し与へた。美術学校会計野田義守の葬式に会するため関口駒井町大泉寺に赴き五時過に帰宅す。八時半芳翠の出発見送のため新橋停車場に至る。後合田と新橋のビアホールに休み黒田の紛事落着の由を聞く。

1904(明治37) 年9月9日

早朝新龍土町にファルデル氏を尋ね授業上の相談をなす。九時美術学校に時間割りの打合せに行き帰途商業学校に立寄り校長に面会、ファルデルと相談の結果を報じ後ファルデルと車輪を連ねて帰る。午後九島喜三郎来訪、生牛酪の土産を貰ふ。夜食後永峯に赴く。

1904(明治37) 年9月11日

今朝桂庵の婆稲毛生れの下女を連れて来る。頗る従順にてよさそうなり。午後佐野を尋ねたるに自転車を分解して手入れ中であつたから少々手伝つた。後共にこまを連れて新橋の橋善に夕食に出掛け銀座通りを京橋まで散歩す。

1904(明治37) 年9月12日

昨日目見へに来た下女三橋はやを取極める。月報の訳文をなす。午後小代来後中野礼四郎来訪一緒になる。四時頃に還つた。自転車前輪の修繕をなす。夜谷斎一来。

1904(明治37) 年9月13日

本日より東京美術学校の課業始まる。西洋考古学の生徒は頗る多数、緒言として審美上の綱領を一時間斗講ず。三時半帰宅。夜和田来訪展覧会書記の件を話す。平山成信君に再度白耳義行断りの書面を出す。

1904(明治37) 年9月14日

商業学校教員推薦ノ件吉田義静氏へ断りの手紙出す。午後美術学校解剖講義今日は第一回故総論丈でおしまひにした。夕方和田が会の書記をやろうといふ高林和静を紹介に来る。明日より会場に出張する様命じた。小泉翁来冠。佐野を呼びにやる。小父さんは遂に来なかつた。今夜はこま大敗森元優勢であつた。

1904(明治37) 年9月15日

昼から学校に出掛ける。谷の手にて解剖図出来上る。今日は解剖第二年骨盤筋及臀筋を講授す。帰りに会場五号館立寄る黄金亭で小林岡田小林鍾など集る。後中丸も来る。

1904(明治37) 年9月16日

今日は解剖及考古学追試験のため学校に出掛ける。十二時半より第二講義室にて行ふ。二時半終る。帰りに五号館に立寄り合田及岡田と電車にて帰る。夜風起り荒れ模様。

1904(明治37) 年9月17日

夜来の風未だ収らず南風にて蒸暑し。一日つまらなく暮した。夜食後敦老人三河台を伴ふて来り鳴戸鮨御持参は大得意の体であつたが撃退は至極御気の毒迷惑なるは小父三也。

1904(明治37) 年9月18日

昨日と違つて今日は上天気で一寸熱さが戻つた。前に高等商業学校の大仕事を控へて居るので一向落つかず今朝は風月堂の菓子を携へて永峯にお見舞に出掛けたるに父上は永田町へ出勤でお留守、小供相手に待つて居る気にもならぬ。立還つたが生憎な時には生憎な事があるもんで一日不得要領でうろついてしまつた。昼後は黒田からの手紙で松方を尋ねたが不在を喰つて三田四国町に廻りポンプの護謨を取換へた丈で終り夜食には三ツ星のコロッケを注文した処が生煮へで食はれず、食後は将に着物を換へて出ようとする際に田中お梅さんに攻撃されて引留められ漸く済んで磯谷の処に行けば留守と来てお負けに空合ひが怪し気になつたので久保町まで行つて引返した。こんな頓間な日暮しはないのだが人間は一生こんな風に不運に終る事もあるのだ。

1904(明治37) 年9月19日

朝八時より車で仙台坂の松方正作氏を尋ねた。今度は在宅で新築の洋館に案内された。展覧会の参考品に借用する画の事を頼む。諸室を案内されたが万事気持よく出来た家である。色々面白い画があるが飾り付を取りはづすのは迷惑らしいので唯二枚丈借りる事にした。後にはエスタンプの話になり其内に歌麿の名画を見せる事を約した。十時過に帰宅する。考古学の下見やら仏文典の通読やらで過した。夜黒田に返書出す。

1904(明治37) 年9月20日

今日美術学校に出掛けて高商兼任の辞令を受取る。帰りに展覧会に立寄つた。鑑査会というので会員大勢集つて居た。今年の鑑査は大分強硬で不合格三十余枚出来た。是が本当であろう。会場の準備はマダ不充分であつた。

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