本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1900(明治33) 年5月29日

 五月二十九日 (欧洲出張日記) 今日ハ曇だ 朝六時半ニ起き風呂などニ這入つた 海ハ至極穏かで病人も段々よく為つて甲板ニ出て来た 午前十一時前頃から支那の猟船がぼつぼつ見えはじめ又海の色が一変して黄色を帯て来た 之れハ揚子江の入口の印だそうだ 又右と左に小さな島が遠くに見えた 二時頃ニ為つて左右ニ条を引た様な陸が現れた 即ち吾れ吾れの船は揚子江の川口ニ這入つたのだ 水の色は全くどろ色だ 雪どけか又は嵐のあつた時の川水の色だ 之れハ今日ニ限つてこんなのではなくいつでもこういう色だそうだ 検疫の為めニ一時船をとめ英人の医者が小蒸気でやつて来て船員船客の頭数を調べた これが四時頃でこれから又船を少し進めて錨を下した メサジユリー会社から小蒸気をよこして皆其船に乗り移つた 此の時ハ五時頃だつた 丁度二時間計川をさかのぼつて上海に着いた〔図 写生帳より〕 吾れ吾れ日本人一同東和洋行の番頭に案内されて人力車で其宿屋に行た 此の東和洋行といふのハ日本人がやつて居る宿屋で下女なども日本人だ 下女は今六人居るそうだが皆日本服だ 此の家の主人が佐賀人だそうで雇人も大抵同国者のやうだ 日本語の分る支那人も一人居る 直ニ案内者ニ連れられて人力車を五台連ねて支那料理に出かけた 泰和館とか云ふ家だ 一とテーブルで六円と云料理を云ひつけて食た 兎ても五人でハ食ひきれない 燕の巣といふものなどを始めて食つた 此の料理屋は一寸大きな家だ 先づ此の地屈指のものだそうだ 這入て突き当りに座花酔月といふ時が書いて有る 座敷と云のは二階だ 往来の側に一と部屋一と部屋にしきりがしてあり部座と部座との間は硝子障子の様なものだから隣は無論のぞける 一体に実ニきたならしいが芸者などをよぶのは矢張こう云ふ処で呼ぶのだそうだ 此処を出て四馬路の寄の様な処ニ這入つた 栄華富貴楼といふ処だそうだ 舞台の左右に扇子形の額がかけてあつて栄華富貴とかいてあり又正面ニハ横長の額が有つて響過行雲とかいて有る〔図 写生帳より〕 此処ハ一人前四十銭だ やかましい音楽をして其節ニ合ハして歌ふのだが芸人ハ皆若い女だ 其女を自分の机の処ニ呼ぶ事が出来るのだそうだ 此処ニ這入つて腰をかけると銘々にお茶を出した 又コツプ形の白い茶碗に紅茶のやうなものを入れて出し舞台の芸人の前にも此のコツプ形の白い茶碗がならべてある 此の辺のにぎやかさは実に想像外だ こんな見世物の中ニも人が多いが往来も一杯の人だ ぶらぶらして居る人の中を大いそぎで籠ニ乗て通る女が有る これハ芸者がお座敷に出る処だそうだ 籠の先にハ提灯をつけた人足が走つて行く 此処を散歩して居るものハ大抵皆支那人で西洋人ハ殆んど見えない 今這入つた寄の前に大きな珈琲屋の様なものが有る 此の家ハ客が一杯だ 又縦覧随意といふやうな風で出る人入る人がせき合つて居る位だ 中ニハ一つの机に二三人四五人づゝ居つて女ニ雑談などして居る 女ハ女郎の様なもので云ハバ遣手婆と云ふ種類の老婆が若いのに附て居て客を引く 若い女ハ十五六とも見ゆる位のが沢山居た 驚く程の美人といふべき奴ハ見えなかつたが其代こんな奴がといふ程の醜婦も居なかつた 此処ハ即ち春江評花処といふ家だ 亜片を飲む部屋ニハあやしげな目付をした男がいくらもごろごろして居て見て歩いて居る人にハ一向気もつかないで一生懸命ニ吸ひつけて居る 亜片ハ必ず寝ながら吸ふものと極まつて居ると見え椅子の大きな様なものがあつて其椅子の中央部に朱檀の盆の様なものがはまつて居る 即ち其盆の上に亜片の道具を置き其両側に寝ころんで亜片を吸ふのだ 此の亜片をのむ処ハ一種不思議な臭がする 此の四馬路 五馬路といふ所は東京で云へバ新橋とか吉原とかと云ふやうな処で色町だそうだ 古道具屋を冷かし夫れから西洋料理屋ニ行てラムネを飲だ 古道具屋ハ中々懸値を云ふ 先づ一円五十銭とゆふたものなら五十銭位にハまける 西洋料理屋ニハ机の上に硯と紙と備へてある 其紙にハ活字で老爺……勿遅と書いたものが何だと聞たら芸者を呼びニやる札だそうだ 其札の中ニ自分の呼びたいと思ふ女の名を書き入るれバ使の者が持つて行くのだそうだ 又此の料理屋ニ芸者の名のかいてある帳面が有つた 此地ハ遊ぶ方の事ハ中々開けて居るらしい 芸者を呼ニやる札ハ桃色の西洋紙にして老爺叫の下に女の名をおき第と号の間ニ部屋の番号を入れて送るのだそうだ 中々便利な仕方だ 芸者で尤も有名なのは(原文数字空白)と云ふのだそうだ 支那でハ芸者の事ヲ何々先生と呼び芸者屋の事ヲ何々書屋と云ふそうだ どうしても支那ハ文字の国だナ 此の西洋料理を出て帰りがけニ広東女の居る家を一寸見る 至て下等なものらしい 様子なども之れぞと云て面白い点がない —- 老爺叫 至四馬路東首一品香 第  号房内侍酒速 速勿遅—-

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