本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1895(明治28) 年2月10日

 二月十日 (従軍日記) 今朝起て見たら雪が二三寸も積で居て四方の眺ナカナカよし 九時半頃より堀井 越智 古谷 久保田諸氏ト海岸砲台見物ニ出懸く 馮家河 鳳林集等を経て龍廟嘴の砲台ニ着シたる時ハ已ニ午後二時頃也し 馮家河の入口ニテ石井大尉ニ出逢ヒ其馬ノ後ニついて行たるニ依り都合がよかつたが徐家屯ニテ大尉を見失ナヒ夫れから少シまごついた為メ時間も余程そんをした 頭本君が泊つて居つたのハ即ち此ノ龍廟嘴の砲台ニテ同氏より此処ノ守備隊の砲兵士官鈴木中尉 福田中尉の二氏へ紹介してくれたから二氏中々親切ニ苦戦ノ話ナドシテ聞カシテくれた 話がすんだ処で越智君が誠ニ申兼ましたがとめしを食ハしてくれと頼だらそれハと云て直ニめしを命ジテくれたがソー直ニハ出来ズ 五時頃に為て始めてめしが食へた うまかつたうまかつた 鶏の汁ナドハ一生忘れがたかる可し 帰りがけニハ徐家屯を出ると夜が入り鳳林集ハ大抵此の辺だつたろうと云て行過て行けば後の山の上月が出た 十五夜の月か 皆でうかれ出シ道ノ難儀も打忘れて詩ナドうなり始む 八時頃虎山ニ達ス

1895(明治28) 年2月11日

 二月十一日 (従軍日記) 昨日のつかれなどぐつすりと寝込みたる処ニ戸の外でオレを呼ぶ者が有り ビツクリして起て見たら朝早七時ニて藤山君がやつて来た 寺内少将ニ今暇乞ニ行たらオレハ一緒ニ帰らぬかとの伝言だつたとの事 其処で直ニ仕度をして立つ 寺内氏と一緒ニ来て居られた丸山知彦氏と虎山を出懸た時ハ八時頃也 温泉湯を経川を幾度も渡り蔭山口ニ着た時ハ十一時頃也 三時頃ニ寺内氏も来られ錦川丸と居ふ小蒸汽ニ乗リ込ム 七時頃ニ龍睡湾ニ着ス 直ニ病院船として此処ニつなぎ有る神祐丸と云ニ移る 松方 荒川氏より伝言有り 松方氏よりハヒモ靴を送る可き事陸軍省へ頼む可し云々 荒川氏よりハ夏服ノ事

1895(明治28) 年2月13日

 二月十三日 (従軍日記) □□□□(原文不明)始メテ万国丸ニ乗移る事と為る 六時頃寺内氏乗船 直ニ出航ス 今度も亦人夫と同席スル事と為る 今度の人夫ハ大抵淡路の者共ニテ此の船の雇人足なれば丸山氏トオレの為メニ此の下等中の一番いゝ場処をゆづり旦那方と云て尊敬ス そうしてねると云段ニ為たら珍らしそうニ大勢枕本ニ集つて来てケツトなど広げるのを見てナントカカントカしやべつて居る体ろうやニはいつた時か又ハ博徒の仲間入でもした時ハこんなものかと思ハる 併し鶏頭至極結構也 めしハ水夫連と一緒ニして中々いゝものを食ハす 兵庫丸の時ニ比ぶれバ上等也

1895(明治28) 年2月14日

 二月十四日 (従軍日記) 曇天気ニテ風強 波高く甲板の散歩も心ニ任せず 小説を一冊借り来りて日を暮らす 気分殊の外悪からず 夜ニ入つて船の動揺益甚シ

1895(明治28) 年2月15日

 二月十五日 (従軍日記) 天気悪キ事昨日の如し 併しはだもち余程暖也 風の吹く処ニ外套なしニ立つて居ても少シも寒ヲ感ゼズ 舟のゆるゝ事ハ矢張はげし 丸山君ハ昨夜も今朝もめしを食ハずニ寝て居られたれどオレハ一度も欠けず 今度ハ不思議ニナントモナイのハ真ニ仕合也 正午頃より対州が見へ出した 下等のきたない甲板のヅツクのかぶさつて居る処ニ腰をかけて小説を読で居たら上等の boy が通りがゝりニ憐れとや思ひたるにや箱の中から蜜柑を二ツ三取り出してめぐんで呉れた ありがたくうれしく押頂て収めぬ 虎山で堀井君の友人なる杉君が来た時ニ蜜柑を呉れたが一の蜜柑を四ツ位ニ切つて僅ニ其一と片を食ふてよろこんだが今日ハ独りで丸ごと食ふとハぜいたくな話だ 夜八時頃ニ下の関の入口ニ来り いかりを下して此処ニ錠泊ス 此ノ辺潮の流急ナル上浅瀬多きが故なるべし

1895(明治28) 年2月16日

 二月十六日 (従軍日記) 朝五時頃ニ船再ビ進行し始めぬ 七時頃起出でゝ見れバ左右ニ一と筋の山ぞ見へけり 昼めしの頃ニハ陸いよいよ近づき村も処々見へ麦畑とおぼしく青々としたる処の有るなど今迄の不愉快ナル気分もくるしき支那の戦も皆忘れ去りて未来即チ此の舟のとゞまらん処ニハ言語ニ盡されぬ楽しき事の待ち居るかの如き思ひ起りぬ

to page top