1895(明治28) 年2月7日


 二月七日 (従軍日記)〔図 写生帳より〕
 同宿ノ者皆少シ寝過て六時半頃ニ起出で芳翠老ノ仏蘭西流のソツプを飲み出懸く 此時ハ已ニ大砲の音が聞エ始めたが先夜登りし山の麓ニ至る頃ニハ敵方よりの砲声が小銃の打合程頻り 実ニ盛也 山の上ニ上り付きしばらく立てO島の砲台ニ火上ル 火楽庫ノ破裂と見ユ 此ノ頃より七八艘の軍艦が祭祀砲台ノ前がわの方ニ集りたり 此ノ時一と条の黒煙を長く引て北山嘴ノ鼻を過ぎ走る軍艦ヲ見る 此ノ舟が山影ニかくれたる頃ニ又一の軍艦劉公島ノ後ニあらハれたり 之レ我艦が敵ノ北ルヲ逐ふモノカ 此れより砲声も静りけれバ今日の戦ハ大体此ニテ終りたるならんと思ひ遙かあなたニ見ゆる此辺で一番高き山の上ニ司令官の居らるゝ様子故其方ニ向ヒ行く チリチリニ分れて出懸けシ我党の者共も皆此処ニて合ス 又松方君 ドラブリー氏等に逢フ 十一時過ニ司令官ニついて山を下り宿所ニ帰る 帰て庭の大がめの上ニ馬乗りニ為て何か山本と話をして居る 山本ハ舍栄営して居る時ニはく為ニ金州から持てきた広島出来のセツタト下駄の相の子の様ナはきものゝ鼻をしたてゝ居る処ニ工藤がやつて来たので今朝のソツプを飲ます 其ソツプから直ニ話が巴里と為つた 今日ハ極テ長閑ナ天気 夫レニ今朝の勝戦と来て誠に心地よし 松方君が見へて一緒ニ散歩ニ出懸く 司令部の前で軍楽隊が諸国のたのしきふしの楽を奏して居たのでしばらく聞て居た 後松方君の処ニ行く 色々ナ話して帰る 晩めしニ酒も少シ飲ミよきかげんのはだ具合で庭ニ出てドウモいゝ月ぢやナイカなど云て二三人で話して居る処ニ一人郵便を受取て帰り黒田君ニも有ると云て出すのを取て見れば金州で急ニ別れた奈良崎君が広島よりよこした手紙也 委しき手紙ニて甚だうれし 再び第二軍ニ従軍する事叶ハずして第一軍の方へ行事と為た次第 真ニ気ノ毒也 北京で逢ふとハ云て来たがオレハ威海衛から帰朝する筈故とても今しばらくハ逢事叶まじ
 (欄外 山東ニ来て今日始めて音楽を聞)