1917(大正6) 年4月13日
四月十三日 金 午前中雨 午前十一時頃杉浦子ヲ呼ビ香典返シノ染物ニ付相談ヲナシ扇面ヲ渡シ図案ヲ頼ム 午後二時前土方老伯悔トシテ来訪 三時袖ケ崎ニ到リ津田 古宇田ノ二氏ト会合シストーヴノ上飾ノ製作ヲ担当セシム 本日ハ総大将ナル松方侯モ見エタリ 食後坂井義三郎君ヲ引見セリ
本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。
四月十三日 金 午前中雨 午前十一時頃杉浦子ヲ呼ビ香典返シノ染物ニ付相談ヲナシ扇面ヲ渡シ図案ヲ頼ム 午後二時前土方老伯悔トシテ来訪 三時袖ケ崎ニ到リ津田 古宇田ノ二氏ト会合シストーヴノ上飾ノ製作ヲ担当セシム 本日ハ総大将ナル松方侯モ見エタリ 食後坂井義三郎君ヲ引見セリ
四月十四日 土 曇 午前十一時頃御写真工場ニ丸木 小川ノ二氏ト会見シ懸案ノ助手五名ニ対スル待遇ノ件ヲ取纏メタリ 和田英作君奈良旅行ノ暇乞旁来訪
四月十八日 水 晴 十時前ヨリ島津邸ヘ出向ク 午後額及掛物ノ配置ヲナシ又飾台ノ寸法ヲ極メ注文ヲナシ五時頃辞去
四月十九日 木 晴 少シク風アリ 午前十一時頃宮内省ヨリ襲爵被仰付ニツキ明二十日午前十時親族ノ内出頭ス可シトノ通知ヲ受ケタレバ電話ニテ大給子爵ニ頼ム 午後一時ヨリ自動車ニテ外出 先ヅ美術学校ニ到リ校長ニ面会シ御前揮毫ノ事ヲ語リ団子坂大給家ヘ回ハル 子爵モ夫人モ不在
四月二十日 金 曇 大給子爵代リテ辞令ヲ受ケ帰途入来交付セラル 午餐ノ饗応ヲナス 近清君モ見ユ 大給子爵去リテ後島津邸ヘ赴キ長谷寺 笄邸ヘ回ル 板谷氏等ト島津邸ニ会合シ楽焼ニ関スル打合ヲナセリ
四月二十二日 日 晴 午前九時前紅葉山御写真場ニ出頭 両皇子殿下ヲ奉写シ零時半頃現像ノ結果ヲ見テ帰ル
四月二十五日 水 晴 仏大使及書記官ヨリ襲爵ニ付賀状来ル 二時半頃ヨリ島津邸ヘ出向ク 途中永田町ニテ車ヲ停メテスミスノ飛行ヲ見ル
四月二十六日 木 晴 宮内省御写真部ヘ回ハリ両皇子殿下ノ御写真ノ見本ヲ寮頭ニ提出シテ零時半退出ス 午食後少シク庭樹ノ手入ナドヲナス 三時半ヨリ仙台坂松方邸ヘ出向キ島津家ノ用件ヲ語リシヤムノ仏像一躯ヲ受ク
四月二十七日 金 晴 チエレミシノフ女史ヨリ招カレテ帝国ホテルニ於テ午餐ヲ共ニス
四月二十八日 土 雨 夕刻ヨリ風 松方正作君ト電話ニテ打合セ置キ午前十時頃ヨリ袖ケ崎ヘ出向キ午後三時頃辞去ス 夫レヨリ末松子爵ヲ訪問シ長谷寺及笄邸ヘ回ハル
四月二十九日 日 晴 風強シ 午後二時頃止ム 午前十時半頃島津邸ニ到ル 経理部ノ会議ニモ列ナリ装飾ニ関スル相談大ニ進行セリ 留守中櫻井ヲシテ岩村君ヲ見舞ハシム 稍々軽快 不日三崎ヘ転地ノ筈 天草神來氏一昨二十七日死去ノ通知ニ接ス
四月三十日 月 晴 午前十時三島子爵来訪 十一時調度寮 十二時半三越 序ニ池畔会展覧会ヲ覧ル
五月一日 火 午前晴 午後曇 夕刻小雨雷鳴 午前十時頃和田英作君入来 昨日京都ヨリ帰リタル由也 十一時頃登校 久シ振ニ授業ヲナス
五月二日 水 晴 午前十時頃中條君入来 笄邸建築費ノ内金九百円払ヒ渡ス 午後一時ヨリ御写真工場ニ出仕シ両皇子殿下ノ御写真ヲ修整ス
五月四日 金 午前中晴 午後雨 二時半頃島津邸ニ到ル 正作君ト出遇ヒ彼是指図ヲナス 花壇丈ト楽焼小屋ハ略成レリ 掛物ト蔵品陳列ハ六日ノ事トシテ残シ委員諸氏ト共ニ晩餐ヲ受ケ六時過去ル
五月五日 土 晴 午前十一時頃登校 午後三時ヨリ五時半マデ御写真工場ニ於テ修整ヲナス 是ニテ六枚ノ修整ヲ了レリ
五月六日 日 小雨 タクシーニテ島津邸ヘ赴ク 午前十時ヨリ午後十時半マデ松方正作君等ト陳列ニ従事ス
五月七日 月 午前晴雨相半シテ後霽 午前九時半頃三越ノ清水氏自動車ニテ迎ニ来リ同道袖ケ崎ヘ赴ク 齊彬公御作ノ茶碗ヲ携帯シ之ヲモ陳列セリ
五月八日 火 快晴 三田慶應義塾前ニテ松方巖君ノ自動車ニ出遇ヒ招カレテ同乗島津邸ニ入ル 両陛下午前十時四十分御着 午後五時還幸啓被遊タリ 先ヅ大過ナク受持ノ仕事ヲ済マセタルハ何ヨリ仕合ナリ
五月十二日 土 曇 午後小雨 午前十時半頃渋沢男爵寿像競技鑑査ノ為高等商業学校ヘ赴ク 終リテ午餐ノ饗応ニ預ル 午後二時参謀本部ニ到リ大山公銅像建設ノ協議会ニ列ス 森 塚本ノ二博士同席ス 五時過夕食ヲ共ニシ後チ三宅坂ナル建設予定地ヲ視察シテ別ル