本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1891(明治24) 年10月2日

 十月二日附 パリ発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 私事一昨日ブレハ島を出立今朝五時頃ニ巴里へ帰着仕候 又明日よりグレ村ニ引籠勉学の積ニ御座候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1891(明治24) 年10月9日

 十月九日附 グレー発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事大元気にて先便端書を以て申上候通去る二日朝ブレハ島より巴里へ帰着 其翌日又当グレ村へ引込み申候 ブレハ島と申処ハ誠ニよき処にて閑静ニして景色よく其上生活安く候 学友久米 河北の二人ハ二ケ月位の見込にて同処ニとゞまり申候 私ハ此の村にてかき度者有之候ニ付乍残念独りにて帰り申候 今の内ニ骨を折り来春の共進会の用意不致候はでハ冬ニ入れば思ふ様ニ勉強出来不申候 今度ハ少し大きな画を描き申度存候 趣向ハ百姓共仕事して休みたる処と一つは女子共蛍をさがし居る処との二つに略今の処にてハ定め申候 手本代かれこれ又々金の入る事ニ御座候 ことニよりてハ手本を巴里より呼ヒ寄セずバなるまじきかとも考居候 然る時ハ一層の物入ニ御座候 ブレハ島にて十五夜の晩ハあはびを買入れすあハびをつくり板敷ニケツトを敷き其上ニ座り月を待ち候処不幸にして曇り月ハ出す 併し愉快ハ盡し申候 久し振りにてすあハびを食ひ候へバ殊の外結構ニ被思候 いくら西洋ニ慣れたりとも矢張日本人ニハ日本物の方がよき様ニ御座候   同島にて雨ニ降られて困りたる時  さなきたニかなしきものを秋の夜のしくれニぬるゝ草まくらかも 又同島にてハ度々魚を食ハせ呉るゝ事ニ御座候 伊勢海老の如きものも三日目ニ一匹位ハ三人にて食ひ申候 西洋ニ参り候よりこれ程魚類を食ひ候事ハ始めてニ御座候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候 横山安克の写真ハ慥ニ届き申候間左様母上様へ御申上被下度奉願上候

1891(明治24) 年10月16日

 十月十六日附 グレー発信 父宛 封書 (前略)私事不相変大元気にて此のぐれ村ニ帰り候以来日々に秋景色など写し罷在候 来春の共進会への画ハ未だかき始め不申候 ブレハ島ニては友人等と一緒にて面白く暮し候得共此地にてハ独り住ひ淋しき事ニ御座候(後略) 父上様  清輝拝

1891(明治24) 年10月23日

 十月二十三日附 パリ発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 次ニ私事大元気にて勉学罷在間乍憚御休神可被下候 此頃ハ当地秋の真盛りにて紅葉の色など余程稽古の為ニよろしく候 去る十八日公使館の日本人会にて三島弥太郎氏ニ出逢ヒ久しぶりの対面 始めハ全く見知り不申候 同氏ハ来月始の便船にて帰朝被為との事承り候 此の頃ハ巴里ニ日本人少き割ニ鹿児島人かなり多く先日集り候内ニ鹿児島人丈が八人 一寸盛故三島氏帰朝前ニ記念として皆寄つて写真を写す事と相談きまり候 私去る四五月頃たのまれて描き候日本女の画新聞紙ニ出候間一冊御送り申上候 其画ハ注文ニ依り可成日本画風ニ描きたるものニ御座候   先日ブレハ島の友人の許へ又々歌を一つ作り送り申候  島人ニつけよ宿せハつはくらめ都の空ニ秋は来ぬると 余附後便候也 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候

1891(明治24) 年10月30日

 十月三十日附 グレー発信 父宛 封書 (前略)来春共進会への画色々趣向致し候 其中一つハ森中ニ鹿の児二三匹居る画大きく描き申度折角其用意致居候 人の画よりも却而面白きかも不知ずと存し幸ニ鹿の子の売り物一匹有之候故金ハ我二十円位にて高しとハ思ヒ候得共巴里の手本を雇ふニ比すれバはるかにましなりと考へ手ニ入れ申候(二三ケ月懸て払ふ事と相談し) 其鹿の児ハ生れてからようやく七ケ月とかニ相成由にて未ダ角ハ無之候(後略) 父上様  フオンテヌブロー鉄道局にて認 清輝拝  御自愛専要ニ奉存候

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