1904(明治37) 年8月18日 Thursday


八月十八日 晴

今朝は三時に目が醒めて余り早いからと思つて居る内、表を叩くものがある。珍らしや小父さんが先がけでやつて来たのである。仕度は前夜ちやんとすんで居るのであるから着物をきるや直ちに出発した。丁度正四時でマダ薄暗り軒燈の光がかゞやいて居るのである。往来の人のない東京の町を快走し青山練兵場の側より信濃町を経て四ツ谷の通りを行つた。新宿遊郭も全く睡つて居る。併し最早夜は充分に明けたのである。女郎屋の少し先で敦翁が車で行くのに出逢つた。鉄道の踏切りを過ぎてから中野の町ではモー往来の人が段々繁くなる。田無を通り小河に行くまで途中で一度か二度煙草の火をつけるために車輪を停めたのみで六時に此道幅が広濶で一直線をなし両側に緑樹の茂つた恰かもヴェルサイユのパルクの様な此小川村に入り腹が減つて溜らなくなつて一つの居酒屋見たやうな処で煎餅をかじる。此処から青梅へは五里に過ぎないというので大に力を得て彼是三十分休息して此家を出たところが村外れになつて路が二本になり右の方にはいつたが今までの大路は畑道となつた。怪しく思つて里人に問ふたら矢張是が青梅道であるという。サア是からが大変で殆んど車の通する路はなくなり草ぶくの間に三条の窪んだ狭い線を引いたのであつてウツカリすると梶をとり損なつて顛倒する曲乗を続けていかなければならぬ。いくら通行が少ないといつてもこんな道路があるのは分らない。是が此旅行の大難であつた。桜並木の路なり凡十四五町も此通を通り過ぎると当り前の街道に出る。是は実に不可思議である。石畑の宿までは可なりであるが是から横道に入ると今度は沙ブタとゴツゴツの砂利とで困難をする。尻の落つきがわるいので腰が痛くなる。小父さんは膝蓋骨が痛むといふ。此処一時間といふものは大困難で漸く青梅の入口軽便鉄道の敷かれた大道に出る。是は入間川街道で立派なもんである。八時過青梅を過ぎ日向和田に前進すると今度は又一面の砂利道となり下車せざるを得ない。モー宿屋が見へるという処で小父さんを待合して居ると丁度小泉老人が停車場から出で来るのと会した。大人はトート来なかつたという。砂利の上に坐つて麦酒を一ト口呑んだが其味は格別流石老人は用意周到である。それから万年屋に上つたのは九時十五分前であつた。裏の二階から多摩川の清流懸崖の下を通する景色は何ともいへない。清涼の空気が脳漿を洗ふか如く爽然たる心地がする。偖目的物たる香魚は如何と聞合せたるに今年は不漁でとてもだめたが幸ひに二疋丈さがして来た。中々立派なもんだ。是丈でも青梅の鮎は東京で知られて居る玉川鮎と違つて馬鹿にはならぬものだと分つた。朝飯兼帯の昼飯に此二疋の鮎を三人で食し枕を出させて一ト休みして大人が二番の汽車で来るかどふかを噂して居るとやがて十二時近くなつてから小児の頭位な西瓜を小脇にかゝへてはいつて来た。矢張今朝寝過して新宿で乗遅れたといふ事である。お負けに青梅で降りて歩いて来たそうで大分手間が取れた訳が分つた。大人の食事が済むのを待つて崖下の渡船場に赴き水泳をやる。川は左程深くはないが激流であるからウツカリ出来ずお負けに水が冷たいから冲も永くはいつて居られない。併し水の清んて居るのは実に気持がいい。水泳後宿屋に帰つて直様例の戦が始まる。不相変も大人の幸運は驚く斗である。今日は小生の全敗に終つた。夜食には鳥鍋が出る。肉の硬きこと申様なし、エビス麦酒三四本を明けてしまつた。食後も老人同行の事故散歩は禁物で程なくランプの下に円坐が設けられた。蚊は先少ない方で仕合せ蚤もたんとは居ない。

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例)「1904/08/18 久米桂一郎日記データベース」(東京文化財研究所) https://www.tobunken.go.jp/materials/kume_diary/871781.html(閲覧日 2025-04-28)