本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1890(明治23) 年7月24日

 七月二十四日附 グレー発信 父宛 葉書 御全家御揃益御安康奉大賀候 次ニ私事大元気にて田舍にて勉学罷在候間御休神可被下候 当地当年ハ誠ニ雨勝にてそとにて景色画の稽古するなどニハ甚だ不宜敷候 此の頃は先づ天気よき方ニ御座候得共天気と申程の事ハ無御座候 先日よりかきかけ居候画二つ共未ダ出来上り不申候 来月ハ此の田舍ニ祭リ有之由ニ御座候 うるさき事故祭の前後十五日位ハ巴里へ帰り居覚悟ニ御座候 巴里ニもかきかけ置候額一枚有之候間又々それニ取り掛り可申候 而て巴里へ出候序ニ博物館なる古画にても写し方可致やと存居候 当年ハ和蘭陀へ遊びニ行事などハ出来不申候 同国公使島村氏ハ英国へ国替へ相成候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候

1890(明治23) 年8月8日

 八月八日附 パリ発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之由奉大賀候 次に私事至極元気本月一日久米氏と共ニ一先づ田舍より引上ケ申候 又此の十五六日頃より引込みかきかけ置候画ニ再び取りかゝり可申候 扨て去月中田舍ニて手本雇入の為思ひの外金を遣ひたると又今月始メニ三ヶ月分の家賃等を払ひ足るが為か金の都合余程悪く相成候故十五日頃迄ハ当地ニ止り少しく倹約仕事と致し久米 河北の両氏と殆んど毎夜日本めしをつくり食ひ居申候 併し此巴里ニ只ぶらりと致し居るハ甚だ不愉快ニ御座候間昨日より博物館の古画の写しを相始メ申候 之レニて田舍ニ行く迄の間も面白く暮し可申候(中略) 此の頃は巴里ニ鹿児島人多く集り居候 総て九人位居申候 先日ハ松方氏兄弟及公使館書記生川崎氏等と四五人私等宅に相集り鶏の汁を作り申候 松方氏三男幸次郎と申人今度の便にて帰朝致し候(中略) 田舍ニて一番愉快を覚え候ハ夜食後舟ニて川をあちこち致すニて御座候 其川は川と申ても上下ニ水車場有之候間溜り水の如ク相成居流れ至而静ニ候 夷人の奴等夜舟ニて月を眺むると云様な楽を知らぬニや夜ハ舟ニて出掛る者無之宿屋の庭先ニつなぎある小舟ハ私共丈の用ニ相立申候 仕合の事ニ御座候 併し如此遊も友ありてこそ面白く候 今度田舍ニ帰リ候ハバ久米氏ハ居らず私独リニて余程淋しかる可しと存じ候 久米氏ハ来る十四五日頃より一ヶ月間程白耳義地方遊歴の積ニ候 巴里へ帰へる前夜例の如く舟にて川をさかのぼり申候処月も出でよほどよろしく候 此の舟遊びも今夜限りなりと久米氏と相談り申候  夏の夜の月かけよりも常なきハ逢えて別るゝ人の行すゑ 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝

1890(明治23) 年8月13日

 八月十三日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたくしハこんげつの一日からちよつとぱりすへいつてをりましてむかしのひとのかいたゑをうつしたりなんかしてをりましたがまた一さくじつこのいなかニかへつてまいりました そうしてやつぱりこないだからかきかけてをりますゑをまいにちかいてをります だんだんすこしづゝけしたりなをしたりしてできていきます もう十五日もしたならたいていすむだろうとぞんじます このゑがすみましたらひとのたつてをるゑをにんげんのおゝきさのとうりにかくつもりです このほうハできあがつてしまいましたらてほんになつてくれるこゝのむらのむすめニやつてしまうつもりニやくそくをいたしました そのかわりニそのおゝきなゑをかくときニはたゞだでてほんになつてくれるのです まづらいねんの五月ゑのはくらんくわいがなニよりのたのしみでございます そのはくらんくわいニわたしのかいたゑがでますればしめたもんです そのときはちよつとがくこうでもそつぎようしたようなもんです なるたけべんきようをしてぜひそのはくらんくわいニだしたいもんだとおもつてをります(後略) 母上様  新太

1890(明治23) 年8月22日

 八月二十二日附 グレー発信 母宛 封書 たつたひとふで申上ます みなみなさまおんそろひいつもながらおげんきのよしおんめでたくぞんじあげ候 わたくしことはいつもあいかわらずげんきでべんきようをいたしてをります このごろハこゝのいなかニたつたひとりでをりますのではなしあいてハなくまことニさみしいことでございます こまつたもんです いまかきかけてをるゑをかいてしまいましたらぱりすへかへつていきたいとおもつてをります(中略) こちらニハかいてあげるほどなんニもおもしろいことハございませんからこれからすこしづゝせいようのくさぞうしをおはなしのようニかきなをしましてそれをおくつてあげませう ひまのときニすこしづゝかくのですからてがみのたんびニハあげだしますまいとかんがへます こんどかきはじめましたからごらんにいれます むちやくちやがきですからよみにくいでしようとぞんじます このくさぞうしハはじめのほうはあんまりおもしろくございませんがあとハずいぶんかなしくなります まづおはなしのあらましハどらまるちんといふひとが十八ばかりのときいたりやニいつてをりましてあるせんどうのうちニやどをしてをりました ところがそのうちのむすめでぐらじゑらといふやつがとしハ十六にてきりようがたいへんよくところでそのおんながそのおとこニたいへんほれてしまつてそのおとこがふらんすへかへつてしまいますとあとでこがれじニにしんでしまうおはなしです まづだんだんすこしづゝかいてあげますよ めでたくかしく 母上様  新太  せつかくおからだをおだいしになさいまし

1890(明治23) 年8月28日

 八月二十八日附 グレー発信 母宛 封書 みなみなさまおんそろひごきげんよくいらせられ候よしおんめでたくぞんじあげまいらせ候 わたくしことハいつもながらだいげんきにてやつぱりべんきようをしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし このごろこのいなかではまいにちさだまらぬてんきにてまことニゑのけいこにハこまります そうしてこのごろハここにハにほんじんはわたくしがたつたひとりですからはなしあいてがなくまことにこまります ずいぶんさみしいことでございます こゝのいなかニはかわがございますからあまりたいくつのときにハつりをいたします(後略) 母上様  新太

1890(明治23) 年9月4日

 九月四日附 グレー発信 父宛 封書 七月十八日付之御尊書昨日相届難有拝読仕候 御全家御揃益御安康奉賀候 次ニ私事至極壮健矢張田舍ニ於て勉学罷在候間御休神被下度奉願候 当地ニて只今折角描居候画大小五ツ有之候 来年四月頃迄ニ是非共描上ゲ其内より上出来の者共進会へ持出す考ニ御座候 其五枚の内一枚ハ高サ一間余幅四五尺之者にて之レハ手本として雇候当地の女の立ち居候肖像にて四五日前描始め申候 之レニハ無賃にて手本ニ為り呉れ候間出来上り候上ハ同人ニ与ゆる約束ニ候 極メての窮策ニ御座候 当地ハ田舍とは申者の英米人等ゼルマン種の毛唐多ク入込み居候故食料など殊の外高ク一日分五仏ニテ且私ハ外国人の群を離れ気楽ニ致すが為メ百姓家の門番小屋如き処を一つ借り之レニ住ひ候故此の方ニ又一ヶ月三十仏程取られ申候 其他手本雇入代が朝より晩迄終日勉強致し候時ハ六仏程やられ候間(巴里ニてハ半日五仏也)一ヶ月分の平均小使銭及絵具買入等迄合せ四百仏位ニ相成候 此の様子ニてハとても立行申間敷 併し別ニ名策も無御座候 学友久米氏近頃白耳義地方遊歴中ニ有之候処仏国境の或地ハ景色殊の外勝れ且つ食料安ク一日三仏五十文にて生活出来候由申来候 依而為倹約当分人物画を止め彼の地方ニ行き景色を専ら研究せんかとも考申候 何ともまだ取極め不申候(後略) 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候

1890(明治23) 年9月12日

 九月十二日附 パリ発信 母宛 封書 みなみなさまおんそろひますますごきげんよくいられられ候はづおんめでたくぞんじあげまいらせ候 わたくしハいつもあいかわらずだいげんきにてこの一しゆうかんほどまへニぱりすニかへつてまいりました これハまだかへりきりニかへつたのでハございません いなかであんまりおかねがいりますもんですからこちらニかへつてまいりましたのです またくめさんのいつておいでなさるいなかハやすいそうですからそこニいこうかともおもいましたがなかなかとをいところにてきしやだいがかたみちでにつぽんのおかねにいたしまして五ゑんのよかかりますからこのたびもやめてしましました もうなにしろおかねがすこしになつてしまいましたからよつぽどけんやくをしなけれバなりませんよ こんげつぢゆうはぱりすでくらすつもりでございます そうしてらいげつのはじめニまたいなかにいきましてせつかくかきかけてをきましたゑのしびをとるつもりでございます こゝでハあさのうちはせんのころかきかけてをきましたゑをあつちこつちつくじりましておひるごハはくぶつくわんニまいりましてゑをかきます まづこれであさのごつとおきからゆうがたのごじごろまでハなニかいたしてべんきようをいたしますからごあんしんくださいまし(後略) 母上様  新太拝

1890(明治23) 年9月19日

 九月十九日附 パリ発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 私事大元気にて近頃ハ博物館内の石像を油絵ニ写し勉強致居候間御休神可被下候 此の業ハ余り面白く無御座候得共手本など雇候時ハ金かゝり只今はなかなか左様の事出来不申候 学資も来月分ハどうかこうか続可申候 御安心被下度候 今月末か又来月始ニハ田舍ニ引込み勉強仕度考ニ御座候 当地本月始より晴天打続き候処此の二三日は又雨雲ニ御座候 はだもちハ秋ニ御座候 此頃ハ同宿の久米等皆離れ居候間淋しき事ニ御座候 夜食など毎夜書生町の方迄散歩ニ出懸申候 あるきながら歌など考へ楽み申候 一二首入御覧候 多分歌ニハ為り申間敷候(以下欠)

1890(明治23) 年10月1日

 十月一日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)こんにちまたこのいなかニまいりました こんげつぢゆうハこゝにをつてかきかけてをいたゑをかくつもりでございます おかねハもうすこしつきりやございませんからもしなくなりましたらくめさんにでもかりましてべんきようをしようとぞんじます おとつあんにもどうぞそうもうしあげてくださいまし なにしろけつしてごしんぱいはめしもすな(後略)

1890(明治23) 年10月10日

 十月十日附 グレー発信 父宛 葉書 御全家様御揃益御安康奉大賀候 私事至極壮健田舍ニ於て勉学罷在候間御休神可被下候 四五日前より河北と申人当村ニ来居られ候間仲間出来面白く暮し居申候 去五日ハ日曜にて独りにて淋しく近在遠足と出懸昨年夏一寸宿仕居候ボアニユビルと申候処迄参り其処ニ一泊翌日帰申候 其ボアニユビルハ此のグレより六七里位の処にて御座候 以上 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候 

1890(明治23) 年10月16日

 十月十六日附 グレー発信 母宛 封書 みなみなさまおんそろひいつもごきげんよくいらせられますでしようとおんめでたくぞんじあげまいらせ候 わたくしことハいつもながらげんきにていなかでやつぱりべんきようをいたしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし このごろハこちらもよほどさむくなりました きのはもだんだんとちりますのでいなかのけしきハすこしハよろしゆうございます やつぱりまいにちてほんになるひとをやとつてゑをかきますのでなかなかおかねがいります このごろはおかねがきれかかりましたからくめさんニいくらかおかねをかしてくれとゆつてやつてをきました もうまたそのうちニかわせもついてくるだろうとまづあんしんしてをります こんどまたあたらしくひとつゑをかきはじめようかとおもつてをります そのゑハのばらでおんながうしをかつてをるところです これハまだかきはじめませんがいまかゝなけれバもう十五日もするとさむすぎてそとニひとをたゝしてをいてかくことなどハできないようニなるだろうとぞんじます ことしハずいぶんたくさんゑをかきかけましたがこれこそハとゆつてじぶんのきニいつたようにできたのハございませんけれどもなるべくひとなみニなるようニほねををつてべんきようをいたしますからごあんしんくださいまし てほんニなつてくれるをんなニやるををきなゑも三四へんかいたばかりでそのままニなつてをります もうこのごろハさむくなりすぎましたからとてもそのゑをかくことはできません なぜならそのゑのてほんニなつてくれるやつがなつのきものでうちわをもつてにハニたつてをるところですからこういまのようニさむくなつてハなつのきものでそとニたつてをるわけニハいきませんよ この六日からゑかきともだちのかわきたさんといふひとがきてをりましたからにぎやかでよいことでございましたがあしたぱりすへかへつていくそうです そうするとまたあとハまことニさみしくなるだろうとぞんじます なんだかにつぽんのことバではなしをしないとせいようのことばでハしんからはなしてをるようなこゝろもちがいたしません そのうへにつぽんじんのともだちがいないとわるくちやぢようだんなどをいふあいてがなくてまことニさみしゆうございます まづこんどはこれだけ めでたくかしこ 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじニなさいまし みなさまによろしく ぐらしゑらのはなしのなかニわからなところがございましたらなんばんめのたいていどのへんだとゆつてくだされバまたなるべくわかるようニかきなをしてあげます〔図 写生帳より〕

1890(明治23) 年10月24日

 十月二十四日附 グレー発信 父宛 葉書 九月七日附母上様より之御手紙慥ニ相届き難有拝読仕候 御全家御揃益御機嫌よく被為居候由奉大賀候 次ニ私事田舍にて不相変勉強罷在候間御休神可被下候 かきかけ候画も段々首尾取れ申候 冬ニならぬ前ニ一つなりとも是非かき取度者と存折角勉強仕候 此頃ハ全ク秋にて景色もよろしく候 御地の景色もさぞかしと思ひ罷在候 霜も度々置き候 今尚一月位ハ是非当地にて勉学仕度考に御座候 巴里学校の方も稽古ハ相始メ候由ニ御座候得共生徒は三四人ニ過ずと申事ニ御座候 生徒中英人にて一人上手の者有之候得共当年ハ学校仕事をやめ独立して画を学ぶ積りの由ニ候 其他の者も上手(学校にて)の分ハ大低独立致し候様子故当年ハ学校至而淋しく相成候事と存候 私も当年ハ例の共進会の方の画を第一と致し学校の方ハ第二と致し候 併しこの冬中ハ矢張学校にて勉学の積ニ御座候 以上 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候

1890(明治23) 年11月28日

 十一月二十八日附 グレー発信 母宛 封書 ますますごきげんよくいらせられ候はづおんめでたくぞんじあげまいらせ候 わたくしことハいつもあいかわらずたつしやにてべんきようをいたしてをりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし おとゝひのあさおきてみましたらまつしろニゆきがつんでをりましたのでまことニうれしくそれからさくばんもゆきがふりましたからなかなかいなかのけしきもよろしくなりました これがまづことしのはつゆきでございます さくばんハあんまりゆきのふるけしきがよろしゆうございましたからすこしおそくなりましたけれどもよるの十一じごろからそとニでましてゆきのけしきをすこしかきましたがずいぶんさむくゑのぐニゆきがまじつてこをつてしまいなかなかかきにくゝそのうへてがかぢかんでしましましたからうちへかへつてねてしまいました こんにちもけさ九じすぎから十一じはんごろまでゆきのなかでゑをかきましたがけさのほうがさくばんゆきがふつてるさいちゆうよりさむいようでした さむいとゆつてもてがつめたくつてはなみづがたれるくらいんことにてゑをかくおもしろさニはかへられませんよ こんなニさむいときなどニおもしろそうに一しようけんめいニなつてゑをかいてをるやつをゑをかかないひとがみましたらさぞばかげてをるだろうとおもハれます らいげつニなりましたらぱりすニかへりましてがつこうですこしべんきようをいたしましたらまたらいねんニなりましたらこゝニやつてくるつもりです こゝのいなかのけしきハなつよりもふゆのほうがよつぽどよろしゆうございます ことしのなつてほんニなつてくれるこゝのむらのをんなのやつのつらのゑをおゝきくかきかけましたがたつた二三どかいたばかりでわたしハちよつとぱりすへかへりそれからまたまいりましたときニハもうさむくなつてかくことができませんようニなりましたがそのゑをどうかしてかきあげてしまいらいねんのはくらんくわいニだしたいもんだとかんがへてをりますがなにぶんニもそのがくハをゝきくてそとでかくかまたゑかきべやでもかりてそのなかでかくかどうかしなけれバいけません それゆへらいはるニなつてこゝニまいりましたときにハすこしおかねハかゝりますがぜひゑかきべやをかりてそうしてそのおゝきなやつをかいてしまをうとおもつてをります こんどハまづこれぎり めでたくかしこ 母上様  新太拝  せつかくおからだをおだいじになさいまし みなさんへよろしく

1890(明治23) 年12月5日

 十二月五日附 グレー発信 父宛 封書 十月十八日附母上様よりの御手紙先日相届難有拝読仕候 御尊公様御始メ皆々様益御安康之由奉大賀候 次ニ私事大元気にて勉強罷在候間御休神可被下候 明後日当地出発巴里へ帰り十二月中ハ学校にて修業仕来年早々又又当地ニ参リ毎度申上候通共進会の用意ニ骨折申度考ニ御座候 只今殆んど出来上り候画油絵具にて四枚炭にて四五枚有之候 皆今度巴里へ持ち帰り教師ニ見せ同人の評を聞候上又当地ニ持ち来りて仕上可仕候 来一月ニハどうかして食料の今少し安く上る様工夫仕画かき部屋一つ借り入れ当夏一寸と画きかけ候手本の大きな像ニ専ラ力を入れ度存候 其外ランプの前にて婦人針仕事の図今一つ相始メ可申候 私夜の図を油画ニ描候事未ダ無之候間一層面白事と楽居申候 当地已ニ雪二三度も降り申候間雪の景色なども試み申候 当地ニハ余リ面白き景色無御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候 学資も一月中ハ大抵充分ニ御座候間御安心被下度候

1890(明治23) 年12月12日

 十二月十二日附 パリ発信 父宛 封書 十一月二日附之御尊書慥ニ相届難有拝読仕候 益御安康之由奉大賀候 元老院も廃院ニ相成今後ハ貴族院開院中の外は御暇ニて御気楽此上も無き儀と奉存候 教師注文の植物菖蒲丈ハ時節よろしく早速送り方御都合被成下候由奉謝候 教師ヘモ其旨通し置候 田舍ニて描申候油画四枚程今日教師ニ見せ申候処殊の外満足の体にて進歩見へ候と申候 其四枚の中窓の内にて女子読書の図尤も気ニ入リ候 一二ヶ所出来悪き処を直し候上是非来春の共進会へ出品致す様申呉れ候 尤も其画の趣向等年寄の画工達の気ニハ入らぬかも知れず候故共進会へ持ち出し候て審査の時ニハねらるゝもハかられず其辺の処ハ覚悟す可しと教師も申事ニ御座候 私の歌態々御直し被下難有厚御礼申上候 又々何ニか思ひ付申候時ハ入御覧可申候 てニはと申者ハ誠に六ヶ敷ものニ御座候 併しそのてニはが日本語の基礎ニ御座候故少しなりとも是非知リ度望ニ御座候 我国の言葉を知らずと申てハはづかしき儀ニ奉存候 巴里へ帰リ申候翌日より学校にて稽古始メ申候 此の儘にて四週間程勉強仕夫レより又々田舍ニ引込みかきかけの画の直し方などニ骨を折度考ニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候 皆々様へよろしく御伝言奉願上候

1890(明治23) 年12月18日

 十二月十八日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)わたくしことハいつもながらげんきにてこのごろハがくこうでべんきようをいたしておりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし このごろのこちらのさむさハずいぶんつようございます(中略) さてわたくしニらいねんぢゆうでかへつてきてハどうだとゆつてくださいますがらいねんともうしましてももうぢきニてらいねんぢゆうといつてもいまからようやく一ねんばかりのことそのくらいにてハどうもおもうようニかけるようニハとてもなるまいとぞんじます ちようどゑをかきはじめましてからことしで四ねんばかりニしきやなりませんよ そうしてはじめの一ねんハほかのけいこなんかをしてをつたもんですからゑのほうハつぎニなつてをりましたのです それでもわりニハはやくすゝみましてせんせいもよろこんでをるのです こないだいなかからもつてかへつてまいりましたゑをみせましたらそのうち一まいだけハできもわるくないからすこしあすここゝつくじりなをしてらいねんのきようしんくわいニだすようニしてみろ しかしうけとられるかどうだかそのへんのところハいまからうけあうことハできないと申ことでした なニしろいまがだいじなところニていません せいニはなれてにつぽんニかへりますれバもうそれぎりにて一せうへたにてくらさなけれバなりませんよ せつかくけいこをはじめましたのニこれからといふときニかへつてしまいましてハなんニもなりませんよ それともうちにおかねがなくまたほかからかりることもできずといふわけにてどうしてもこうしてもこつちニをればこじきをするよりほかニしかたがないといふのなればどうもいたしかたハございません けれどもなんにもそうゆうわけハないのですからせつかくのことまあどうしても二三ねんハたゞいまどうりニしぎようをいたしたいものでございます につぽんがもうちつとちかいところとかまたにつぽんにもせいようのようニじようずニゑをかくひとがたくさんをるとかいふわけならいまにつぽんへかへつていつてもまたちよつとこつちニでてくることもでくるしまたにつぽんニいてもしぎようができますがそういふわけニもいきませんからどうしてもひとなみニゑのかけるようニなるまでかなるべくならバひとなみよりすこしよくかけるようニなるまでハぜひこちらニをりましてじようずなひとのゑをみたりまたじようずなせんせいニついてしぎようをしたりいたしたいもんです そうしなけれバとてもよいゑがかくことハできませんよ わたしのせんせいもそうゆつてをりましたよ おまいなんかハすこしゑがかけるようニなつたらどうしてもにつぽんへかへつていかずバなるまいが一どかへつていつてそのままあんしんをしてひつこんでをるようなことでハいけない につぽんへいつたらいろいろめづらしいにつぽんのゑをかいてそれをもつてこつちへでゝきてきようしんくわいニもしじゆうだすようニするほうがいゝ なニしろべんきようしろと申てくれます こういふほどのことでございますからいまようやく四ねんばかりしぎようしたばかりでいゝきニなりにつぽんへかへつていくことハどうもいやでございます につぽんニをるゑかきのひとたちのまへニもはづかしくてでることハできませんよ どうぞそのわけをあなたさまより父上様へ申上げてくださいましてもう二三ねんハどうしてもこつちニをるようにしてくださいまし わたしもはやくかへりとうハございますけれどもそんなかんがヘハつまらないこどものようなかんがへにてなニよりもだいじなのハゑがよくかけるようニなることですよ(後略) 母上様  新太拝

1890(明治23) 年12月26日

 十二月二十六日附 パリ発信 父宛 封書 十一月十八日附の御尊書慥ニ相届き拝誦仕候 御全家御揃益御安康之由奉大賀候 次ニ私事大元気にて勉強罷在候間御休神可被下候 来年にも相成候ハヾ段々帰朝の都合に致様御下命相成承知仕候 即ち其心得ニて勉学仕候積ニハ御座候得共何分今の腕前通りにて帰朝するハ残念の至に御座候 願くハ共進会ニ一二度も出品仕せめて三等の賞位ハ得て後ニ帰リ度者ニ奉存候 実ハ三等位ニてハ充分な訳ニハ無之候 二等の賞を得て始メて画かきと一寸世間の人ニ云はるゝ位の事ニ御座候 又二等賞を得候得ば其後ハ検査を受けずして毎年共進会へ出品するの権を得る事にて遠く日本などニ住ひ欧州人と肩をならべて行かんニハ第一ニ其二等賞位迄斬付け置かずバ先き先力なき事ニ御座候 併し之レハ僅一二年間位いの勉強ニて望む可き事ニハ無御座候間愈其内ニ帰朝せずハならぬと云次第ニ御座候得ば一旦帰り候上又々何とか工夫位是非一生の内ニハ其二等位迄ハ進み不申候ハでハ甲斐なき儀ニ御座候 先当分来年の共進会を楽みニ勉学仕候 植木も已ニ馬寒港ヘハ着居候事と存候得共船会社の方よりハ未ダ何たる知らせ無之候 御送り被下候植木屋よりの受取書の写しなど教師へ示し置候 同人もよろこひ居候 今度の便より当地にながく居候加藤恒忠と申者帰朝致し候 同人ハ始メハ諸生にて後ニ公使館の書記生をつとめ居候者ニ御座候 私先々の見込なども一寸略話し置候間御聞取被下度奉願上候 私行ク行クの処実力を以て欧人とならび立行度望ニ御座候 余附後便候 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候

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