1890(明治23) 年8月8日


 八月八日附 パリ発信 父宛 封書
 御全家御揃益御安康之由奉大賀候 次に私事至極元気本月一日久米氏と共ニ一先づ田舍より引上ケ申候 又此の十五六日頃より引込みかきかけ置候画ニ再び取りかゝり可申候 扨て去月中田舍ニて手本雇入の為思ひの外金を遣ひたると又今月始メニ三ヶ月分の家賃等を払ひ足るが為か金の都合余程悪く相成候故十五日頃迄ハ当地ニ止り少しく倹約仕事と致し久米 河北の両氏と殆んど毎夜日本めしをつくり食ひ居申候 併し此巴里ニ只ぶらりと致し居るハ甚だ不愉快ニ御座候間昨日より博物館の古画の写しを相始メ申候 之レニて田舍ニ行く迄の間も面白く暮し可申候(中略)
 此の頃は巴里ニ鹿児島人多く集り居候 総て九人位居申候 先日ハ松方氏兄弟及公使館書記生川崎氏等と四五人私等宅に相集り鶏の汁を作り申候 松方氏三男幸次郎と申人今度の便にて帰朝致し候(中略)
 田舍ニて一番愉快を覚え候ハ夜食後舟ニて川をあちこち致すニて御座候 其川は川と申ても上下ニ水車場有之候間溜り水の如ク相成居流れ至而静ニ候 夷人の奴等夜舟ニて月を眺むると云様な楽を知らぬニや夜ハ舟ニて出掛る者無之宿屋の庭先ニつなぎある小舟ハ私共丈の用ニ相立申候 仕合の事ニ御座候 併し如此遊も友ありてこそ面白く候 今度田舍ニ帰リ候ハバ久米氏ハ居らず私独リニて余程淋しかる可しと存じ候 久米氏ハ来る十四五日頃より一ヶ月間程白耳義地方遊歴の積ニ候
 巴里へ帰へる前夜例の如く舟にて川をさかのぼり申候処月も出でよほどよろしく候 此の舟遊びも今夜限りなりと久米氏と相談り申候
  夏の夜の月かけよりも常なきハ逢えて別るゝ人の行すゑ
 余附後便候 早々 頓首
 父上様  清輝拝