1904(明治37) 年7月4日
七月四日 月 晴 暑サ一昨日ノ如ク甚シカラズ
御容体ハ別ニ変リナシ 笄町静子殿モ漸次快方トノ事也 卒業式ニ就キ登校 校長病気ニテ出デズ 十一時式終リ正午頃帰宅 午後四時半頃ヨリ合田ト同道枕橋八百松ニ催サレタル校長及川端教授渡米送別会ニ臨ム 九時半頃同処ヲ立チ出デ又合田ト連レ立チテ帰ル 十一時頃帰着 三十分ノ後就寝 往ニハ麹町六丁目ヨリ築地ヲ経テ両国マデ電車 両国ヨリ吾妻橋マデ川蒸気(二銭)復ニハ浅草ヨリ尾張町新地中央新聞角マデト日比谷公園ヨリ麹町四丁目マデト電車 往復ノ費用ハ往五銭復六銭也 余リ安キ故記シ置ク
本日卒業式に付八時過より家を出で学校に出掛ける。炎天にて暑気随分はげしい。正木先生は病気のため不参。高村髯翁代理を勤める。列席者は文部大臣を始め大勢であつたが至極簡単に儀式は済んだ。後運動場の老木の蔭で写真を取り十時半頃に引受つ〔ママ〕た。午後日本画の生徒毛利牧野の二人落第生免除願ひに来る。校長に相談して見よふといつて帰した。夜、校長及川端の送別会を八百松に開く筈で総ての準備を行つた後であるから校長の欠席に構はず開かれた。職員連は大概出席、小使頭の西村の裸体踊りの乱行を見たる外至極無事に終つた。帰りは小林と二人で本所の方を廻り大橋を越へて十時半頃帰宅した。(七月四日 快晴)