1901(明治34) 年11月24日


 十一月二十四日 日 (碓氷紀行)
 七時前に起き八時半頃出立 霜を踏んで行く 昨夜の宿屋は金湯館と云つて一家耶蘇宗也 此の辺にハ案外早くより耶教が這入込んだものと見ゆ 明治六七年頃よりとの事 一夜の泊り賃一人前五十銭といふのハ椎茸に味噌汁丈の御馳走にしてハ高いと云評が出た 尤だ 又此の金湯館の特色は酒を売らないのだ 宗旨が宗旨だからの事であるにハ違ないが宿屋営業をして居る以上は少し位は売る方が相方の便利ならん 又特に昨夜の如き寒夜にハ地酒の一杯もやつて見度き心地せり
 昨夜登つた路を八町下り霧積に到る 昨夜の婆さんに出遇ひ昨夜の礼を述べ霧積全成時代の話など聴く 明治二十四年頃が一番盛で間数の四十も有る旅籠屋が三四軒も有り人力車の二十台位は絶えず此の辺に客を待ち居たり 今ハ只老夫婦の住居せる一軒丈無事に存在せるのみ也 老夫婦と云ふと山間の人物にハ極うつりがいゝが其実左迄の老夫婦にハ非ず 四十前後の者共也 妻なる者の雄弁岩村以上との評なり 其一例を挙ぐれバ
  此様な処に住で居りますと人ニ逢ふのが誠に嬉しゆうございます まだいま頃まではいくらか人も見えますがこれから寒くなり雪が二三尺も積りますと外へ出る事さへ出来ない位でございます そう云時にハ吾々のやうな者が来ても団十郎にでも逢つた位うれしいでせう 左様あなたのやうな低い鼻でも高く見えませう
 右は岩村と婆さんとの対談であるが此の一と勝負で岩村はたしかに負けと極まりたり 一同大笑にて別れを告げ山を下る
 婆さんの話の中にハ東京の或る学校長の岡倉といふ方と橋本といふ人達と来てモモンガーといふ毛だものをお討ちなさいましたといふ話も有つた 又吾々にハ珍らしからうと云ふ考でイワナといふ魚で此の谷川で捕れるのだと云て掛樋の水に養つて有る函の中の魚を見せて呉れた
 処々に立派な明家が残つて居て立ち腐れに為つて居る これ程にすたれて仕舞ふとハ不思議なものだ 霧積の渓流のあたり中々よき景色也 紅葉の頃もいゝに違なし
 段々下つて坂本村へ近ヅくに随ひ風景次第次第に平凡となる
 途中にて柿を籠に入れたる女に逢ひ柿を買ふて食ふ 一銭に三ツ也 其柿の形はまるでトマトだ 又途中の草原に一と休みした時其処に居た田舎親爺がまじめに為つて山猫が石を投げるといふ話をした 坂本村へハ出ず 近路を通つて直ちに横川駅に到る 時二十二時 霧積より横川迄凡三里也といふ
 停車場前荻の屋といふ家にて一人前二十五銭といふ飯を食ふ 鯉こくに牛肉入のオムレツトにて味至てよし 一時五十五分発の気車にて東京へ帰る 途中岩村 菊地などの奇談にて少しも退屈せず 只佐野は出立前からの風邪が未だ全く平癒せざるのみならず今日は殊に気分勝れずとて道中大ニふさぎ込み気の毒であつた
 東京に着し京橋の吉川にて牛鍋を食ひ八人八方へ散る