1901(明治34) 年11月23日


 十一月二十三日 土 (碓氷紀行)
 皆がわいわい騒ぎ立てゝ七時頃に起る 天気はよし いゝ気持だ 九時半の軽井沢行の気車に乗る前に市中を見物した 可也繁昌な町也 大通にハ渋川通ひのおもちや的の鉄道馬車が有る
 有舛君 湯浅一郎の故郷なる安中や妙義山など打眺めて有名なアプト式鉄道でがたがた登りトンネルを二十六過ぎて軽井沢に着いたのハ十二時半位 プラトフオルムで売つて居る汁掛けそばを一杯やる 三銭也 軽井沢といふところは兼て話に聞て居てどんなにいゝ処かと思つて居たがいや誠につまらない所 西洋人の別荘といふものは沢山有るが全くの殖民地風だ 尤も殖民地と云つても至て悪い方の殖民地と知るべし 鶴屋といふ家に立寄る 薙蕎麦はマア可也のもので有つたけれども飯のお数に出て来た鯉こくは糞臭くしてて兎ても兎ても 二時少し過に此の家を立ち出づ 嶺の熊野権現の前を廻り山を幾つとなく越ゆ 落葉の積み重なりたる細き路を行く事故難儀なり
 其内ニ夜ニ入つたれど幸十三四日の月があかなりし御蔭にて渓に落込むの難ハ免がれたり 不図人家らしいもの谷合に見え近寄れバ一つのあばら家也 七八年前より住む人も無く荒れ果てたりといふ霧積温泉即是也 又少しく行けバ一軒の家有り 此の辺掃除行届き又家より煙立つ 先きに進みたる者共家の後に進みたりしが人と語るやうの声聞ゆ 果して此の家にハ夫婦の者が住居して居る 横浜の者のよしだが八九年前より或人の為に家番をして居る 霧積にハ此の二人の外にハ薪切る男共一二人のみ 他にハ誰も居らず 婆さん中々元気のいゝ且つ深切な人にて丁度風呂に入つて居たが吾々の難儀の様子を見て入りの湯といふ温泉は八町程上りたる処なり 其処にハ一軒の宿屋が有るなど語りたり 又爺さんが三四町許案内して呉れた 六時入りの湯に着す
 宿屋に入り先づ居炉裡を囲んで座したり 座敷は全くの田舎の旅人宿風也 各座敷に炉が切つて有りアンカがこしらへて有る 灯火ハランプは用ひず角あんどんなり 飯の出るまでハ皆可也賑やかにしやべつて居たが今日の四里計の山路に多少労れたと見え食後例の如くぢやんけんで順に風呂に入つて寝床の中にもぐり込み世間ハ忽ち鼾の音と渓流の音と丈に為つて仕舞つた