1904(明治37) 年2月10日 Wednesday


二月十日 水曜日

仁川及旅順海戦の報発表せられ市中は号外売りの鈴声と海軍大勝利の呼び声は満都に響いた。開戦の劈頭に斯る吉報来りたるがため人心は浮立つやうである。併し旅順の戦報は芝罘の電報で敵艦の損傷を挙げたるも我艦隊の消息は不明である。砲台下の交戦で敵の軍艦を数隻傷ける位なれば我れも多少の損失は免れぬやうに思はれ、一艘の怪我もなかつたといふ事は到底想像する能はざる所である。勿論未だ詳細の報が来らぬのであるから夜間の攻撃丈は甘くいつても翌日の大海戦には我軍の受けた損害も必ず重大なるべしと掛念せられるのである。学校に例の通り十二時半頃に出た処、合田が今日は校長から生徒一般に達しる事があるから第一講義室に集めるといふので課業はやめだといふた。一時半頃から校長演説が始まり、我々も生徒と共に聴聞するのである。演説はやはり戦争についての心得であつた。先づ此戦争は我邦に取りて容易ならざる出来事で、魯西亜といふ国は、今までの歴史上不思議に他国を抑へつける力を持つて居るのであつて、今度の戦争の如きも容易く其結果を予知すべからざることで、此際国民一般は沈重の態度を取らねばならぬ。今日勝利の報が来たといつて、決して之に浮れて騒くやうなことは許さない。騒くべき時になれば、自分を始め大に騒ぐから、それまでは落ついて勉強をしなければならぬ。又戦争については政府は大に金が入る。其金はつまり国民の懐から出さねばならぬから此際成るだけ使はないやうにして余金を供給しなければならぬ。それも其金を政府にやつてしまふ必要はなく、唯軍費に差支へない丈に勝手に出来ればよいのであるから、郵便貯金の如きものに倹約をして、積立つてやる丈のことをすればよいといふやうな趣意で、三十分斗りの間かゝつた。是が為め今日の解剖講義は休講した。此演説は多分文部大臣の内訓を受けて、何れの学校にても同様の論告をやつた事と思はれる。然なから慶応義塾では此夜か明る紀元節の夜にカンテラ行列を催し、上野公園に勢揃ひをして二重橋に繰込んだそうである。東京でこふいふマニフェスタッションをやつたのは是限りで、文部大臣及び、警視総監は極力之をやめさせる事を努めたやうだ。是は外国人に対する遠慮と見るより外はない。随分量見の狭いやり方で大分文部大臣をひやかした新聞もあつた。先づ開戦前後の様子はこんなもんである。丁度紀元節の祭日が追々種々の電報が集つて、旅順の大勝利は疑ひない事となつて益々恐悦になつた最中であろう。処で翌十二日の朝、一の警報が伝はつた。それは浦塩にすつこんで居た露国の艦隊が北海に現はれ、商船二艘を撃沈し、又福山の市街を砲撃したいふので、一寸人心洶々としかゝつたが、福山砲撃丈は事実でないといふ事が段々分つた。又露艦は此暴行後、直様浦塩に帰したといふので、やつと安堵をした次第なり。此報知で最も奮慨して止まなかつたのは小代の小父さんで、海軍の奴等は北海道はからにして何をしていやがるといつて頻りに其油断を罵つた事がある。

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例)「1904/02/10 久米桂一郎日記データベース」(東京文化財研究所) https://www.tobunken.go.jp/materials/kume_diary/871216.html(閲覧日 2024-04-26)

同日の「黒田清輝日記」より
 二月十日 水 半晴
 岡倉 横山 菱田 六角ノ四氏米国渡行ニ付今朝九時新橋発ノ通知アリ 即チ右四氏ヲ見送ル 帰宅後午前中ハ父上 笄町)ノ文久年間ノ日記ヲ引出シ処々拝読 午後ハ鎌倉ヘノ書状及ビ友人ヘノ分二三通認メタルノミ 余ノ時間ハ来客ノ相手ニテ夜ニ入ル 夜食後母上ト照ハ外出 拙者ハ留マリテ机上ノ書類ヲ整理セリ 今朝新聞紙上仁川沖海戦勝利ノ記事アリ 又午後ノ号外ニテ旅順口外ニ於ケル海戦大勝利ノ電報ニ接ス 今夜寝室ヲ洋館ヨリ日本座敷ヘ移ス 昨晩六時神戸発鹿児島父上ヨリノ端書今夜十時頃到来
 来訪 中丸精十郎 菊地鋳太郎
二月十日 水 半晴