本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1900(明治33) 年7月2日

 七月二日 (欧洲出張日記) 今日はコルシカ島の方角へ向つて進む 今の様子ではコルシカ島の脇ニ行くのは多分今夜の十二時以後だらう 午後一時頃に寒暖計は二十七度の少し上に為つて居た 華氏の八十度一寸上だ 海は青白く至而平だ アヽもう今日明日でいよいよ仏国ニ着く事と為つたが気持の上からは一向に平気だ 五六年前に仏国から帰りたてにあれ程に再び行き度いと思つた其仏国ニ近づいたとは更ニ思ハれない 此の事は吾れながら不思議ニ思ふ 同じ処を見ても同じ事ニ出逢つても人と云ふものは只其境遇でよくも悪しくも思ふものだ 五六年前には日本へ帰りたてゞ総ての事が気ニくハず夫れに今少しせめて三四年丈でも修業して立派な者ニ為りたいものだと云考が有つたもんだから再び行き度いという念が火の燃えるやうにさかんであつた ところが色々な事で時が立つて仕舞ひ今日でハ日本の方でする仕事も段々出来てくる それに修業の為め又三四年も行くと云ふ事ハ兎ても叶ハぬ願と知り望といふ事ニも限りをつけてあきらめなけれバならぬ次第と為つて来た 此の時ニ当つて或る限りある仕事丈の為めニ仏国へ行くのだから今では仏国ニ近づいても案外ニ冷淡であるのだらう 今日五時半頃ニ支那へ送る兵士を乗せた仏国政府の運送船二艘に行遇つたそうだが吾々は室に居たが為めに見なかつた 今度の一件ニ就て日本ではどんな騒をして居るか知らん 夜十二時頃にコルシカ島の海峡を通つた

to page top