1904(明治37) 年7月28日
七月二十八日 木 晴 午後少シク雷鳴 暑気甚シカラズ
御体温朝ヨリ九度近クマデ上リ御容体宜シカラズ 因テ更ニベルツ氏ノ来診ヲ請フ 午後六時頃小西氏同道ニテ来診アリ 心臟ノ外膜ハ一昨日ニ比シ稍軽ク内膜コソ現今最モ大切ナリトノ事也 薬剤ノ分量等ニ就キ少シク変更スル所アリタリ ベルツ氏ハ明日ヨリ考古材料蒐集ノ為メ日光ヘ赴キ五六日ヲ経テ帰京ノ由也 父上ニハ午後四時頃御入来 診察ニ御立合ヒ遊サレ晩餐後御還リ遊サレタリ 夜井田女平癒セシトテ来談 十一時ニ至ル 午後二時頃ヨリ三時半頃マデ久シ振ニ斎彬公御肖像ノ修正ヲ試ミタリ 十二時就寝 三重県大八木一郎ヨリ暑中見舞ノ手紙来ル 最後ノ特別正誤表出来上リ昨夜届キタルニ因リ本日父上ヘ差上グ 是レニテ歌選ニ関スル印刷ハ了ル
夜食を五時前に仕舞つたから、父上の病気見舞に水蜜桃を携へて自転車で目黒に行く。最早神経痛は鎮静との事であつた。今日の朝日新聞銀行金融順調論を話したるに、早稲田伯は全く反対にて財政悲観有価証券下落の見込との事を聞く。是も余り当てにはならぬと思ふ。九時頃まで話し、帰宅せんとして狸穴坂にて伏兵あるを偵知し、銀座辺まで迂回す。是は今夕万朝の号外遊弋露艦全滅の報を確かめんと欲したる故なり。果して此報は海軍省より虚報なるを言明したり。世俗の期待心に満足を与へんとする此種の報はとふして出るものにや。十時過になり帰れば高島、小泉、菊地、森元、小父さん悉く集つて居た。大人の勢当るべからずとの事、余は一回丈でやめた。(七月廿八日 曇)