本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1890(明治23) 年12月5日

 十二月五日附 グレー発信 父宛 封書 十月十八日附母上様よりの御手紙先日相届難有拝読仕候 御尊公様御始メ皆々様益御安康之由奉大賀候 次ニ私事大元気にて勉強罷在候間御休神可被下候 明後日当地出発巴里へ帰り十二月中ハ学校にて修業仕来年早々又又当地ニ参リ毎度申上候通共進会の用意ニ骨折申度考ニ御座候 只今殆んど出来上り候画油絵具にて四枚炭にて四五枚有之候 皆今度巴里へ持ち帰り教師ニ見せ同人の評を聞候上又当地ニ持ち来りて仕上可仕候 来一月ニハどうかして食料の今少し安く上る様工夫仕画かき部屋一つ借り入れ当夏一寸と画きかけ候手本の大きな像ニ専ラ力を入れ度存候 其外ランプの前にて婦人針仕事の図今一つ相始メ可申候 私夜の図を油画ニ描候事未ダ無之候間一層面白事と楽居申候 当地已ニ雪二三度も降り申候間雪の景色なども試み申候 当地ニハ余リ面白き景色無御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候 学資も一月中ハ大抵充分ニ御座候間御安心被下度候

1890(明治23) 年12月12日

 十二月十二日附 パリ発信 父宛 封書 十一月二日附之御尊書慥ニ相届難有拝読仕候 益御安康之由奉大賀候 元老院も廃院ニ相成今後ハ貴族院開院中の外は御暇ニて御気楽此上も無き儀と奉存候 教師注文の植物菖蒲丈ハ時節よろしく早速送り方御都合被成下候由奉謝候 教師ヘモ其旨通し置候 田舍ニて描申候油画四枚程今日教師ニ見せ申候処殊の外満足の体にて進歩見へ候と申候 其四枚の中窓の内にて女子読書の図尤も気ニ入リ候 一二ヶ所出来悪き処を直し候上是非来春の共進会へ出品致す様申呉れ候 尤も其画の趣向等年寄の画工達の気ニハ入らぬかも知れず候故共進会へ持ち出し候て審査の時ニハねらるゝもハかられず其辺の処ハ覚悟す可しと教師も申事ニ御座候 私の歌態々御直し被下難有厚御礼申上候 又々何ニか思ひ付申候時ハ入御覧可申候 てニはと申者ハ誠に六ヶ敷ものニ御座候 併しそのてニはが日本語の基礎ニ御座候故少しなりとも是非知リ度望ニ御座候 我国の言葉を知らずと申てハはづかしき儀ニ奉存候 巴里へ帰リ申候翌日より学校にて稽古始メ申候 此の儘にて四週間程勉強仕夫レより又々田舍ニ引込みかきかけの画の直し方などニ骨を折度考ニ御座候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要ニ奉祈候 皆々様へよろしく御伝言奉願上候

1890(明治23) 年12月18日

 十二月十八日附 パリ発信 母宛 封書 (前略)わたくしことハいつもながらげんきにてこのごろハがくこうでべんきようをいたしておりますからどうぞどうぞごあんしんくださいまし このごろのこちらのさむさハずいぶんつようございます(中略) さてわたくしニらいねんぢゆうでかへつてきてハどうだとゆつてくださいますがらいねんともうしましてももうぢきニてらいねんぢゆうといつてもいまからようやく一ねんばかりのことそのくらいにてハどうもおもうようニかけるようニハとてもなるまいとぞんじます ちようどゑをかきはじめましてからことしで四ねんばかりニしきやなりませんよ そうしてはじめの一ねんハほかのけいこなんかをしてをつたもんですからゑのほうハつぎニなつてをりましたのです それでもわりニハはやくすゝみましてせんせいもよろこんでをるのです こないだいなかからもつてかへつてまいりましたゑをみせましたらそのうち一まいだけハできもわるくないからすこしあすここゝつくじりなをしてらいねんのきようしんくわいニだすようニしてみろ しかしうけとられるかどうだかそのへんのところハいまからうけあうことハできないと申ことでした なニしろいまがだいじなところニていません せいニはなれてにつぽんニかへりますれバもうそれぎりにて一せうへたにてくらさなけれバなりませんよ せつかくけいこをはじめましたのニこれからといふときニかへつてしまいましてハなんニもなりませんよ それともうちにおかねがなくまたほかからかりることもできずといふわけにてどうしてもこうしてもこつちニをればこじきをするよりほかニしかたがないといふのなればどうもいたしかたハございません けれどもなんにもそうゆうわけハないのですからせつかくのことまあどうしても二三ねんハたゞいまどうりニしぎようをいたしたいものでございます につぽんがもうちつとちかいところとかまたにつぽんにもせいようのようニじようずニゑをかくひとがたくさんをるとかいふわけならいまにつぽんへかへつていつてもまたちよつとこつちニでてくることもでくるしまたにつぽんニいてもしぎようができますがそういふわけニもいきませんからどうしてもひとなみニゑのかけるようニなるまでかなるべくならバひとなみよりすこしよくかけるようニなるまでハぜひこちらニをりましてじようずなひとのゑをみたりまたじようずなせんせいニついてしぎようをしたりいたしたいもんです そうしなけれバとてもよいゑがかくことハできませんよ わたしのせんせいもそうゆつてをりましたよ おまいなんかハすこしゑがかけるようニなつたらどうしてもにつぽんへかへつていかずバなるまいが一どかへつていつてそのままあんしんをしてひつこんでをるようなことでハいけない につぽんへいつたらいろいろめづらしいにつぽんのゑをかいてそれをもつてこつちへでゝきてきようしんくわいニもしじゆうだすようニするほうがいゝ なニしろべんきようしろと申てくれます こういふほどのことでございますからいまようやく四ねんばかりしぎようしたばかりでいゝきニなりにつぽんへかへつていくことハどうもいやでございます につぽんニをるゑかきのひとたちのまへニもはづかしくてでることハできませんよ どうぞそのわけをあなたさまより父上様へ申上げてくださいましてもう二三ねんハどうしてもこつちニをるようにしてくださいまし わたしもはやくかへりとうハございますけれどもそんなかんがヘハつまらないこどものようなかんがへにてなニよりもだいじなのハゑがよくかけるようニなることですよ(後略) 母上様  新太拝

1890(明治23) 年12月26日

 十二月二十六日附 パリ発信 父宛 封書 十一月十八日附の御尊書慥ニ相届き拝誦仕候 御全家御揃益御安康之由奉大賀候 次ニ私事大元気にて勉強罷在候間御休神可被下候 来年にも相成候ハヾ段々帰朝の都合に致様御下命相成承知仕候 即ち其心得ニて勉学仕候積ニハ御座候得共何分今の腕前通りにて帰朝するハ残念の至に御座候 願くハ共進会ニ一二度も出品仕せめて三等の賞位ハ得て後ニ帰リ度者ニ奉存候 実ハ三等位ニてハ充分な訳ニハ無之候 二等の賞を得て始メて画かきと一寸世間の人ニ云はるゝ位の事ニ御座候 又二等賞を得候得ば其後ハ検査を受けずして毎年共進会へ出品するの権を得る事にて遠く日本などニ住ひ欧州人と肩をならべて行かんニハ第一ニ其二等賞位迄斬付け置かずバ先き先力なき事ニ御座候 併し之レハ僅一二年間位いの勉強ニて望む可き事ニハ無御座候間愈其内ニ帰朝せずハならぬと云次第ニ御座候得ば一旦帰り候上又々何とか工夫位是非一生の内ニハ其二等位迄ハ進み不申候ハでハ甲斐なき儀ニ御座候 先当分来年の共進会を楽みニ勉学仕候 植木も已ニ馬寒港ヘハ着居候事と存候得共船会社の方よりハ未ダ何たる知らせ無之候 御送り被下候植木屋よりの受取書の写しなど教師へ示し置候 同人もよろこひ居候 今度の便より当地にながく居候加藤恒忠と申者帰朝致し候 同人ハ始メハ諸生にて後ニ公使館の書記生をつとめ居候者ニ御座候 私先々の見込なども一寸略話し置候間御聞取被下度奉願上候 私行ク行クの処実力を以て欧人とならび立行度望ニ御座候 余附後便候 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候

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