1884(明治17) 年8月28日


 八月二十八日附 パリ発信 父宛 封書
 七月十一日附之貴書本日相届キ謹而拝誦仕候処御尊公様御始御一同御揃御壮康之良奉大賀候 お当地橋口氏及小生至極元気ニテ小生ハ当分学校休業中故橋口氏方ヘ同居罷在候 左様御休意可被下候 此ノ下宿屋ニハ日本人都合四人下宿致居候間朝夕相集ひ談話等致し殆ント日本ニ居ル心持ニ御座候 即チ其四人ハ橋口氏 松方正作氏 海軍中尉坂本氏及ヒ小生ニ御座候 松方氏ハ大蔵卿二男ニテ当地公使館書記生ニ御座候 先般郵便切手一件申上候処早速伊地知氏へ御願ひ被下好都合ニテ已ニ相調ひ後便より御送与被下との旨拝承仕奉万謝候 不日相達可申と相待チ申候 御地ニテハ今般華族増加シ又公侯伯子男ノ五等ニ分たれ候由 付テハ樺山氏ニモ小華族連中ニ御加入之由慶賀至極ニ奉存候 右華族令ニ付テ御地諸新聞之説ハ如何ニ御座候や承リ度候 諸華族中疏球王ニノミ未ダ爵位ノ下賜無之ハ如何ナル都合ノモノニ御座候や奉伺居候 平河町相撲興行中ハ棧敷御貸切御見物被遊候由定而よき御楽ミニ相成申候事ト奉推察候 当地此頃ハ時候最早少々涼しく相成申候 当地ハ文明第一の地ニハ御座候得共随分野蛮ノ野郎モ多ク有之小生等市街ヲ歩スレバ支那人ト呼ヒ相顧ミ申候 日本人ト呼フ者ハ甚ダ稀ニシテ百人中一人モ無之程ニ御座候 清仏戦争ハ御当地如何評番致シ候や 去る二十三日頃当地在留支那公使ハ已ニ当地ヲ引キ払ヒ而戦争モ已ニ相始マリ清兵少シク敗北セシ由承リ候 先ハ御返詞旁御左右伺迄如此御座候 草早 頓首
 父上様  清輝拝
  御自愛専一ニ奉存候 七丁目父上様及叔父様ヘ可然御伝言奉願上候
 再伸
  本日清仏戦争之確報ヲ橋口氏より承り申候 其報ノ略曰ク 去る二十三日仏兵清ノ軍艦九艭及小船十二艭ヲ撃破シタリ 而清兵死者一千人手負三千人 仏兵死者七人手負三十七人也ト云

同日の「久米圭一郎日記」より
清国仏国ト海戦ノ事ヲ国中ニ公布ス八月廿八日