1884(明治17) 年5月22日
五月二十二日 パリ発信 母宛 日記
五月十六日附 金曜 朝ハ曇リ少シ寒シ 午後ハ一層暖也
諸事如前日 午後三時頃日本ヘ日記及ヒ母上様ニ奉ル書状一通出シタリ 夜靖献遺言ヲ読ム 十時頃寝
十七日 土曜 本日ハ昨日ヨリモアツキ様也
午後五時過直衛門ニ面ス 本日ヨリ夜ノ稽古六時半ヨリ始マリ九時ニ終ル事ニ改マリタリ 但シ今迄ハ六時ヨリ八時半迄ナリシ 帰室後久松氏ニ日本ノ鹿児島発生ノ琵琶会等ノ話ヲ為シ聞セタリ 而独リ日本ノ朋友ノ事等ヲ思ヒ出シ夢中ニナリ話ヲ為シ不知不識時ヲ過シタリ 十時半過入床ス
十八日 曇時々雨
午前例の八時半頃ヨリ外出ス 久松氏ト門外ニテ別レ橋口氏ニ行ク 十時頃より直衛門及ヒ松方氏ト公使館ニ行ク 少シク止まり夫レヨリ直衛門ト米国人計リ行ク米国ノ寺ニ行ク 十二時過キ寺ヲ出デ直衛門ノ下宿屋ニ帰ル 時ニ十二時半頃也 午後三時過ヨリ直衛門及松方氏ト遊歩ニ行ク トロカデロノ少シ先キノ処ヨリ川蒸気ニ乗シ先日直衛門ト行キシポンドジュルトカ云処ニ到ル 上陸シテ三人共ニ少シク運動シテ一ノカツフエニ寄リレモンヲ飲ミ又川蒸気ニ乗シテ帰ル 此ノ地ハ巴里府ノ城壁ノ処ニテ場処ハ至テ小ナル処ナレバ来遊者甚ダ多シ 併シ大抵ハ巴里ノ市中ノ開化人デ無ク少シ田舎風ノ人車也 故ニ美服等ヲ着シ居ルモノ少シ 夜食後又三人ニテ下宿屋ヲ出デ余ハアルクドトリヨンフノ処ニテ別レ帰塾セリ 時ニ九時半頃也 直ニ寝ス
十九日 月 雨 今日ハ曇ニテ又少シク寒シ
朝ヨリ冬ノ上着ヲ着シ居リタリ 扨テ先日最早寒キ事ハ有ル間敷ト思ヒ冬服ヲ盡クカバンノ中ニ入レ夏服ノミヲ出シ居キタリシニ又今日ハ寒キニ依リ不得止又冬服ノ上着ヲ出シタリ 夜久松氏ト日本ノ話等ヲ為シ十時五分過入床
二十日 火 曇 本日モ気候ハ昨日ノ如シ
朝ヨリ今日モ冬ノ上着ヲ着シタリ 午前十一時頃教師ゴツファル君教場ニ来リ余及ヒ久松氏ヲ呼ビ別ノ一小教場ニ併ヒ到り素読及書キ取リヲ少シク為サシメタリ 是レ余輩ヲ試ミン也 夜帰室後当地ノ小学校生徒ノ風ヲ記シタリ 十時半頃入床
二十一日 水 晴 本日ハ又少シク暖也
午後例ノ素読ノ稽古無シ 其他無事 夜少シク靖献遺言ヲ読ミ後希臘語ノ文典ヲ読ミタリ 十一時寝
二十二日 木曜
本日ハ当地ノ祭日ノ由ニテ終日休業也 併シ朝ノ八時迄ノ稽古ハ有リタリ 朝食後即チ八時半頃ヨリ久松氏ト外出ス 共ニ吉村氏ノ下宿ニ到ル 幸在宅ニテ面会ス 此ノ吉村氏ニハ先般公使館の門ニテ始メテ面シ今度ニテ二度目也 時ニ九時半頃也 十分計ニシテ此ノ家ヲ出デ久松氏トジヤルダンチユルリー公園内ニテ別レ直衛門方ニ行キタリ 達セシ時ハ十時半頃也 已ニ而直衛門及松方氏ト公使館ニ行キタリ 公使館ニテハ今夜夕食ノ大御馳走ガ有ル由ニテ小使等客室ノ片附等ヲ為シ居リタリ 余本日始メテ公使館ノ客室ヲ見タリ 隨分美也 暫時ニシテ又三人共ニ下宿屋ニ帰リ食事ヲ為ス 而又三人共ニ同処ヲ出デ直衛門及松方氏ハ公使館ニ行カレ余ハ分レテ独リ画ノ見物ニ行キタリ 此ノ画トハ此頃画ノ共進会ノ如キモノ有リ其ノ見物也 画数甚ダ多クシテ美悪ヲ詳スルニ勝ヘズ 其内日本人ノ画ヲ一ツ見付ケタリ 是レハ日本人ガ画キシカ又ハ西洋人ガカキシカ知ラザレドモ日本ノ宮内省ノ女中ノ様子ニテ例ノ平タキ頭ニテ大礼服ニ木ノ扇子ヲ持チ座シ居ル処ノ風也 甚ダ良ナラズ 多分日本人ガ画キシナラン 立タル風ナラ座セシヨリ少シハ良カリシナラント想像セリ(余計ナ心配) 午後二時半同処ヲ出デ直衛門ノ下宿屋ニ帰ル 時二三時少シ過也 直衛門ハ留守ナレバ少シク室内ニテ休息シ同四時半ノ御出門ニテ五時無事平隱ニ御着校遊サレタリ 目出タシ 本日直衛門ニヅボン一枚貰ヒタリ 縱横ニ小ナル囲碁盤島の夏ズボン也 今夜例ノ夜ノ稽古有リ 併シ今日ハ六時ニ始マリ八時半ニ終ワリタリ 帰室後此ノ手紙ヲ記シタリ 今時計ヲ見タルニ十時十分過也 以上(以下次号) 今朝学校ヲ出ズル時夏服ヲ着シ上ニ外套ヲ着シ行キシニ思ヒノ外善キ天気ニ成リ甚ダアツクシテ汗迄出デタリ 夫レ故外套ハ直衛門処ニヌギテ置キ終日着セズ 帰塾の時モ手ニ持チテ帰リタリ 此ノ頃ハ午後八時頃ニ真黒ニ夜ガ入リマス 頓首再拝 乱筆御仁免度被下候
東京ニテ 母上様 無事 清輝拝
みなさまによろしく