1904(明治37) 年10月9日


 十月九日 日
 午前川路利恭君 与倉氏 叔母様及角田真平君来訪 夕刻御墓碑建設々計ノ儀ニ付キ青山ナル岡野ヲ訪フ 夜合田ヲ訪ヒ閑談

同日の「久米圭一郎日記」より
今日は目黒行を思ひ立ち松茸売りより三枚の木の子を四十五銭で買つた。天気怪し気なりしが思ひ切つて九時半から出掛けたところ生憎に父上は長岡少尉の葬式でお留守暫らく待つた。今日は昼食のおつき合をするつもりで来たのだから庭先など歩いて廻る。よねの兄が来て居た。何となくムツムツして居る。十二時少し前にお帰り、間もなく食事にはライスカレーの真似事余り上出来でもない。学校通ひのお手際にしては左までの事もない。父上の戦争談に今の露西亜と幕末政府対長州事件との比較は一寸面白いやうである。二時から帰つて来た。四時過に中沢が来て展覧会の画を太陽其他の雑誌に掲ぐる事につき小原の故障云々の事を相談す。断じて差支へない由を答へた。昨日よりブリッキ屋が雨樋の取替へにかゝり今日の夕方で出来上り大に気持がよくなつた。
此頃手間取りの忙しさに暫く日記もお留守になつたが此間に開戦以来最大の出来事というべき沙河会戦の報が達した。黒鳩が憎態極る大言を吐いて事かゝつた大逆撃も九日以来五六日間の戦争でマンマと失敗に畢つたやうで実に気持がよかつた。我軍は獅子の口中に頭をつき込んで居るには違いないが、其獅子たるや口中に牙はなく此頭を噛み潰す力はないのである。併し此勝利は未た其終局は告けないで暫時睨み合ひの姿である。市中では今度は提灯行列もやらなかつた。株式市場の不況は実に不思議といふの外なし。
十月九日 陰