1904(明治37) 年2月8日


 二月八日 月 午後雨
 午前十時半浜松止リノ列車ニテ石原氏同道御出発 見送人拙宅ヨリ母上 照 綱祐 外ニ姉上 直綱母子 与倉叔母様 白尾 大迫ノ二氏善兵衛ノ十一名也 発車後停車場ニテ皆々離散ス 内ノ者丈四人連ニテ銀座ヲ散歩シ釆女町清新軒ニテ昼飯 食後数寄屋橋ヨリ電車ニテ麹町六丁目迄 橋口家ニ立チ寄リ始メテ茂ガ児ヲ見ル 夕刻打揃ヒ帰宅 今夜ハ殊ノ外淋シク母上様 照ト暫時雑談 十時過寝室ニ入ル

同日の「久米圭一郎日記」より
十時半学校で佐野と逢ふ約束であつたから上野に出掛け校長にも逢ひ石膏の事を取極める。校長は文部省から呼出されて居るといつて間もなく出た。それから佐野と二人で実物に就いて撰定し長原の部屋に集り十二時過まで話した。十二時半学校を出て三橋の世界といふ牛肉屋にはいつた。此附近も召集者でゴタゴタして居る。田舎から出た赤毛布冠りの同伴人と三々五々あたりを歩いている。牛屋にも沢山の草鞋が表にならんでいたが我々は表の小室に入り余り混雑の余波を被らなかつた。此室の窓からみた三橋の光景は平日とは全く変つて見えた。食事を終ると小雨が降り出し早々自転車を飛ばして帰宅す。二月八日 月曜