1922(大正11) 年6月2日

7h1/2ニ起キル 無風ニテ暑クナル 午前中昼寝 夜食後喫烟室ニテ骨牌ヲヤリ時ヲ過ゴシ其跡京大岡林教授同大学病院ノ進ンダ方法ノ話ヲスル 10h1/2休ム 新嘉坡ヨリ乗込ノ船客多ク船橋込合フ

1922(大正11) 年6月3日

7h過ニ起キタ 昨日ヨリハ少シ楽ニナル 昼前ニ少シカルタヲヤリ午后ハ Sieste お茶ノ時ニ牡丹餅カ出ル 4h過右舷ニ低イ小島ヲ見ル 夜カムラン湾附近ノ陸地ガ月明リニ見ヘル 10h前ニ休ム

1922(大正11) 年6月5日

7hニ起キル 風ガナクナツテ暑気加ハル 前夜ハ今迄ニ最寝苦シイ方デアツタ 午前ハ眠ラズ過ゴス事ガ出来タ Henry Bordeaux ノ小説ヲ読ミ畢ル 試験点附ヲモナス

1922(大正11) 年6月6日

今日着船前デ少シ早ク起キル 朝ヨリ両側ニ島々ガ見ヘテ居ル 9h前ヨリ香港島見ヘ次第ニ港内ニ進入 10hニ九龍棧橋ニ横着ニナル 11h前ヨリ深尾君ノ連中ニ加ハリ大阪商船ノランチニテ上陸 自動車二台デ12h少シ前ヨリ島廻リ drive 香港ホテル別館午餐ノ後2h再ヒ乗車2h1/2頃会社ニ帰ル 夫ヨリ独立行動ニテ散歩 柏井氏ヲ訪問後近所ニ廻リホテルニテ休息 6hニ再ヒ会社ニテ集リ西〓爼ノ支那料理ニテ晩餐 会社ノ人々大勢来ル 紹興酒ノ乾盃ニテ10h頃ニ解散直様帰船 夜中蒸暑安眠出来ズ

1922(大正11) 年6月7日

7h前ニ起キル 船橋ニ昇リ生キカヘル ヤガテ両替屋商人等来ル 10hヨリ飯田氏ト渡船市中ニテ別レ電車ニテ女皇路ノ支那街ニ行キ素見毛筆ヲ買ツタ丈デ引返シ船ニ帰リ午食ニ間ニ合フ 午后ハ上陸セズ長椅子デ寝転ンデ新聞ナド見ル 5h出帆ノ予告ナリシガ鉄ノ荷揚手間取リ晩食マデ動カズ漸ヤク10h過ニ解纜シタ 夜ニ入リ月明港内ノ夜景ハ見事デアツタ 骨牌デ11h過ニナルMEMO:7-8 Hong Kong

1922(大正11) 年6月8日

夜来動揺スル 7hニ起キ Pilulle ヲ飲ム 午前昼寝 昼頃日本へ無線電報出ス 午後新聞ヲ見テ過ゴス 夜カルタニテ十時ニナル 夕方ヨリ段々静カニナリ夜中毛布ヲ着テ寝ル

1922(大正11) 年6月9日

7h1/2ニ起キル 海上ウネリアリテ揺レル気分悪シ 午後モ同様船暈ヲ感ズ 夜演芸会気ガマキレテヨシ浪花節モ大出来ナリ 10h1/2休ム 夜中モ roulis 益強クナル

1922(大正11) 年6月10日

7h前ニ起キル 船揺レハ大分静マリタルモ気分ハ悪シ 昨夜風ノ為メニ船進航不良 潮時ニ後レタルタメ船河口ニ停止 午後四時頃ヨリ夜中マテ満汐ヲ待ツ 夜中呉淞二進ム

1922(大正11) 年6月11日

朝検疫後河ヲ上ツテ行ク中棧橋塞ガリ又々停船 一時余待チ10h1/2ニ会社ノ岸ニ横付ケス 加藤日吉出迎ヘル 午食後加藤ノ案内デ八人連レデ城内見物ニ出掛ケル 湖心亭茶楼ニ休息 人力デ四馬路茶館ニ立寄 永安百貨館屋上ヨリ市中ヲ展望 5h1/2解散 日本倶楽部加藤寓所ニ寄リ入浴ス 船津君迎ヘニ来テ呉レ官邸ニテ御馳走ニナル 愛久沢土肥原北岡秋山其他十名余同席ス 10h1/2解散 自動車ニテ豊陽館ニ送ラレ同旅館野垣氏ノ周旋ニテ部屋ヲ用意サレ一泊スMEMO:11-12 Shanghai

1922(大正11) 年6月12日

7h過ニ起キ朝湯ヲツカイ爽快ニナル 朝食半熟紅茶ヲ部屋ニテ喫シ9h勘定ヲシテカラ下ニテ床屋ヲ呼ビ人力デ豊陽館ヲ出デ一度船ニ戻リ10h1/2名倉ヲ尋ネル 支那ボーイヲ連レ外出 両替ヲナシ再江西路ニテ名倉藤原同道福州路杏花楼加藤ト会シ午食後二人ニナリ河南路ニテ買物 3hニ総領事館ニ行ク 日本へ電報ヲ出シ船津君自動車ニテ船マテ送ラレル 予定ノ通5h出帆ハ大出来ナリ 夜蚊出ル 笠井将軍退治ヲヤリ安眠出来タ

1922(大正11) 年6月13日

7hニ起キル 気候適快 海上平静申分ナシ 朝食卓上無名幹事ヨリ Pourboires ニ関スル回章巡ル 後カルタヲヤル 正午航程200n.残り580ニナル 北回リ航路進行 午後荷物片付ケヲナシ 4h過ニ父上及黒田へ電報出ス 夜田中猪太郎ヨリ無線電到着ス

1922(大正11) 年6月14日

朝八時船橋ニ出レバ右舷ニ壱岐島近ク駛リ左舷ニ対州見ヘ海上油ヲ流スカ如シ 田中猪ヘ返電ヲ発ス 朝食後カルタニテ昼ニナル 午後2h下ノ関海峡ヲ入ル 荷造ノ支度ヲナス 横浜揚荷拵ヘデ汗ミドロニナル 夕方芸州近キ島々見ヘ右舷ニ伊予岬頭ヲ望ム 夜食後荷詰ヲナスMEMO:Jeudi 15 Kobé

to page top