本データベースでは中央公論美術出版より刊行された『黒田清輝日記』全四巻の内容を掲載しています。なお、デジタル化にともない、正字・異体字・略字や合成文字は常用漢字ないし現行の字体に改めました。



1890(明治23) 年5月7日

 五月七日附 グレー発信 母宛 封書 (前略)わたくしことハいつもながらだいげんきにてこの二三日くめさんといつしよニぐれと申ところニまへつてをります このぐれと申ますところハいつかも申てあげましたとうりぶんぞうさんとご一しよニまいつてをりましたところです そのときからもう二ねんばかりニなりますもんですからそのときちいさかつたこどもなんどがもうおゝきくなつたりまた十二三のおんなのこなんどがりつぱニおゝきくなつてをります(中略) このいなかでかきたいものがたくさんございますけれどもたゞいまハあいにくおかねのすくないときですからながくおることハできませんよ もう三四日もしたならまたぱりすニかへつていきましてそうしてくめさんがぎんこうでおかねをうけとるとそのおかねでまたふたりづれででかけようといふつもりです(後略) 母上様  新太

1890(明治23) 年5月17日

 五月十七日附 グレー発信 父宛 葉書 (前略)一昨日ヨリ又々グレト申田舍ニ参リ今度少シク大ナ者ヲ二ツ三ツカキ度存居申候 旅費かれこれ皆久米よりノ借金ニ相成候 久米 河北の両氏ト共ニ来り候間日本語ニ不自由無之愉快ニ御座候 当地ハ米国人非常ニ多キ地ニテ英語ノ社会甚ダ面白カラザル次第ニ候処今度ハ日本人三人ト相成候故毛唐人ニハ関係セズ我等ハ我等ニテ別ニ一世界ヲ為シ居申候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝

1890(明治23) 年5月23日

 五月二十三日附 グレー発信 父宛 封書 御全家御揃益御安康之筈奉大賀候 私事至而元気未ダ田舍ニ滞在中ニ御座候 先便より申上候通リ今度ハ久米 河北の両氏と共ニ来リ候間夷人の中ニ居る様な心地少く愉快此事ニ御座候 為換券面の間違も里昂なる正金銀行支店ニ問合せ候処返事有之全くドルとフランとの間違と相解り右為換券ニ対する金額仏貨にて七百八十余仏送り来り候間今ハ只巴里の銀行にて其金受取る計りと相成候 御安心被下度奉願上候 当グレと申地ハ田舍とハ申者の此の三十年位前より画工多く来る地と申事にて仏人の画工ハ甚ダ稀ニ候得共(私ハ未ダ仏人の画工ハ一人も見受不申候)英米人至而多く只今私共止宿致居候旅店ニ同居の英米人十余人有之候故ニ何となく夷人臭き心地致し候 右の次第にて当地の百姓等外国人を見付け居候て若き女子などにて手本ニ雇れ候者も有之便利なる事ニ御座候 私も仕合せニ一人可成形ちよき者を雇ふ都合ニ相成候 巴里ニ比すれバ値段も殆んど半分ニ御座候 朝ハ八時半頃より十二時迄午後ハ二時頃より六時頃迄ニて五仏位にて上り申候 併し食料等の外ニ五仏づゞ毎日かゝり候事故非常ニ貧乏仕候 其かわりニ何ニか面白き者を是非共両三枚かき上げ度者と存し折角勉強罷在候 只今かきかけ居候者ハ窓の下ニて女子手仕事を致し居体の者一枚木の陰ニて若き百姓等休息し居る図等ニ御座候 其外夕方ニ牛を野より引き帰る処又ハ小さき子供ニ歩き方を習ハする処など色々かき度と思ふ図ハ沢山御座候 右等の図ニ付てハ只景色のみと申訳ニは行かず是非共人を雇ハねば行かざる次第ニ御座候 当年ハ勉強仕候て右等の画をかき上げ申度奉存候 それニ付てハ毎度申上通り学資ハ例年よりも多く入り申候 左様御承知奉願上候 今度御送り被下候金子にて久米氏への借金等も返し可申候 此の金にて今月の払も致し六七月中ハ無事ニ勉強出来可申御安心可被下候 昨年迄ハ只学校ニテ勉強致すのみニて田舍ニ参リ候ても自分ニ何ニか考へて一つの額面ニまとめ見るなど申事無之候故金も入り申さゞりしかども当年ハ少しく歩を進め手本など雇ひ候故貧乏ハ致し候得共愉快ハ先年ニ十倍致し候儀ニ御座候 天気ハ雨勝にて景色など稽古の為にハ甚ダよろしからず候 又天気よき時ハあつさかなりつよく候故是亦余り感服不仕候 余附後便候 早々 頓首 父上様  清輝拝  御自愛専要奉祈候 御送り申上置候学校にての稽古かき等文蔵様の御用ニ相成候由仕合の事奉存候 当年ハ学校の稽古がき甚ダ少く候 其故ハよく出来たる分ハ皆学校の方ニ取上ニ相成油絵などハ皆学校ノ壁ニ掛ケられ候 併シ年の末にハ返へし呉るゝとか申事ニ御座候

1890(明治23) 年5月30日

 五月三十日附 パリ発信 父宛 葉書 益御安康大賀候 私事大元気一昨日田舍より帰り申候 之レハ金子受取などの為にて有之候 最早用事全くすみ候間明晩又々田舍へ出立の考ニ御座候 今日ノ昼めしニ教師の別荘ニ招かれ候 先般御送被下候牡丹ノ名の翻訳など仕候 又色々牡丹菊などの注文有之候 委しき事は後便より申上候 早々 頓首 父上様 清輝拝  御自愛専要奉祈候

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