1887(明治20) 年3月20日
三月二十日附 パリ発信 母宛 封書
二月十日のおてがみけさあいとゞきさつそくはいけんつかまつり候(中略)
こないだのころはゑのけいこはよるばかりいたしましたがこのごろはよるのけいこはやめましてひるま二じから五じごろまでけいこをいたします あいかわらずゑのせんせいはていねいにしてくれますからしあわせでございます このまへのしゆうかんはそのゑのがつこうにてゑのかきくらがございました おとこのはだかぼをやきずみでかくのが一つとだびどとゆうひとがそうるとゆうとのさまのまへでことをひいてをるところのゑをゑのぐをつかいみたてゝかくのが一つでした わたしハがつこうにいくもんですからほかのひとたちのようにねんをいれてかくことができずそれゆへおとこのはだかぼうのゑハ六ばんでしたけれどもだびどがことをひいてをるゑでは一ばんをとりましたからごあんしんくださいまし(後略)
母上様 新太郎拝
Après-Déjeuner je suis allé avec Kouroda au musée du Louvre, et puis nous nous sommes rendus à la réunion de la Société Japonaise à la rue Fg St Honoré, nous y avons entendu discours de Mr Myacava à propos de la philologie et nous nous sommés retournés à 6h.(和訳)三月二十日 日曜日
(3/20 Dimanche)
昼食後、黒田とともにルーヴル美術館に行き、次いでフォーブール・サントノレ通りの日本人会の会合に赴いて、宮川氏による文献学についての演説を聴いたあと、六時に帰る。